太平洋戦争当時まだ幼かったある男の子は特攻隊に憧れていた。しかし、雨のように降ってくる空爆と低空飛行の機銃掃射に襲われ、85歳になった今も、「機関銃の音が耳から離れない」と戦争の恐怖を語る。

自宅近くに特攻訓練の飛行場

佐賀・吉野ヶ里町に住む北村邦弘さん(85)。

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北村さんが生まれた1939年、第二次世界大戦が勃発。その翌年には日本・ドイツ・イタリアによる「三国同盟」が締結され日本は太平洋戦争へと足を踏み入れる。

当時、自宅の近くにあったのが目達原飛行場。今も、その正門跡が残っている。特攻隊を志願する若者が訓練を受けた太刀洗陸軍飛行学校の分校として使われていた。

「特攻隊は憧れの存在だった」

幼い頃、「飛行機乗りになる」という夢を持っていた北村さんにとって「特攻隊員」は憧れの存在だったという。

北村邦弘さん:
かっこよかったよ。特攻隊の人たちを時々見ていたら違うんですよね。普通の兵隊さんとは全然違うんです。飛行帽かぶって、彼らは軍刀さげていた。そして長靴踏んでいた。普通の兵隊さんと全然違う

そうした中、戦局は激しさを増し、北村さんの身近にも危険が迫り始める。空襲が身近に迫る中、北村さんは防空壕に避難することもあった。その時のことを次のように語る。

北村邦弘さん:
爆弾落とすところが…流れてくるでしょう。雨の降るように落ちてくる。あれを見たときには怖かったね。子供ながらにね。子供だから好奇心があるから(外に)出たらいけないけれども出ていくんですよ。兵隊から怒られていた。『(外に)出たらだめだ』と

そして1945年7月28日、目達原飛行場周辺をアメリカ軍が空襲。午前中のことだった。

見上げると米軍機が…川へ避難

突然、周囲に鳴り響いた空襲を知らせるサイレン。北村さんは、周りの大人から急いで身を潜めるよう指示を受けた。

北村邦弘さん:
飛行機の音は聞こえなかったけど、『川に入れ』って言われて。最初、なぜ言われたのかわからなかった。ぱっと上見たら飛行機が見えた。そのまま川の中に入った。服を脱ぐ暇なかった。入らなかったら殺される

隣接する三田川町と合併し吉野ヶ里町となった東脊振村の村史は、この空襲で3人が亡くなり焼夷弾による火災が20棟あったことを伝えている。

低空飛行“機銃掃射”の恐怖

北村さんの記憶から消えない戦争体験。それはアメリカ軍の「機銃掃射」だ。アメリカ軍の飛行機は10分ほど低空で飛び回っていたという。北村さんが命を守るため身を隠したという小さな川に案内してもらった。

北村邦弘さん:
怖かったね。(アメリカ軍の飛行機が)飛んで来たとき、最初はそうでもなかったけれど、機関銃の音を聞いたら怖かった

北村さんが隠れたという場所の近くには、機銃掃射を浴びたとされる石碑がある。石碑には、機関銃の弾の跡が残っていた。

北村さんが住む地区が機銃掃射を受けた約半月後、日本は終戦を迎えた。
終戦後、北村さんは父が立ち上げた醤油メーカーに入社した。1982年に会社を引き継いだ後、今は一線を退き会長職についている。

北村さんは今でも、あの夏に聞いた機銃掃射の音が耳から離れないという。

北村邦弘さん:
鉄砲で撃つのとは違う。早いでしょ。バラバラと撃っていくから。ああいう経験はもうしたくない。

(サガテレビ)

サガテレビ
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