家族のもとに届けられた父の日記

太平洋戦争の終結から8月15日で75年となった。
戦地マーシャル諸島から家族のもとに届けられた父からの日記。父を感じたいと、この日記を手にマーシャル諸島を訪ねた男性が宮城・亘理町にいる。

佐藤勉さん:
みんなで母親に孝行を尽くしてください。父の分までも

亘理町逢隈に住む佐藤勉さん(79)。

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佐藤勉さん:
この日記をみると駄目なんだね。悪いことはできない。真っすぐ生きなきゃならない。その力添えを与えた日記

佐藤さんの父・冨五郎さんが、戦地マーシャル諸島で書き残した2冊の日記。
戦友が日本へと持ち帰り、家族のもとに届けられたのは、終戦から約2年後だった。

佐藤勉さん:
おばさんが反復して読んでくれた。その時に初めて父親が亡くなったと知って、わんわん泣いた

戦地から息子へ 日記に残された父の気持ち

1943年8月、当時37歳だった父・冨五郎さんは、日本の委任統治領だったマーシャル諸島の第64警備隊に配属された。
冨五郎さんが出征した当時、まだ2歳だった佐藤さん。父親の記憶はない。

佐藤勉さん:
優しくて温厚な人と聞いている

日記には、幼い頃、中耳炎だった佐藤さんを遠く離れた戦地から心配する冨五郎さんの気持ちが残されている。

冨五郎さんの日記:
勉君ドウシタカナー、彼ハ耳垂レデアッタ、僕は其の治療当タッテヤッタ、耳ノ手入、掃除ヲシテ呉レとセガムノデアッタデセウ、此ノ日忘れまい

佐藤勉さん:
すごくかわいがっていたんだって、母に聞くと「勉、勉」と。愛情いっぱいに育てられていたんだと思う

約1年9カ月間、戦地での思いが克明に書かれた2冊の日記。
その間、アメリカ軍により日本からの補給は途絶え、戦況は日々悪化していった。
日記の最後には、食べる物もなくなり、動かない体で必死に書いた遺書が残されていた。

冨五郎さんの日記:
二十五日、全ク働ケズ苦シム、日記書ケナイ、之ガ遺書。昭和二十年四月二十五日。最後カナ

この翌日の午前4時、父・冨五郎さんは、39年の生涯に幕を閉じた。
栄養失調による餓死だった。

訪れたマーシャル諸島で増す父への思い

佐藤さんはこれまで3回、遺族会の慰霊ツアーでマーシャル諸島を訪れた。
しかし、団体行動による合同慰霊祭で許された滞在時間はわずか20分。佐藤さんの父への思いは増していった。

佐藤勉さん:
とにかく会いたい。亡くなった場所に行って会いたい。検証したい。自分の体で感じたい。1カ所に止まって「はい終わり」では物足りなくなった

4年前、念願だった個人での訪問が実現した。

2016年4月、その時の様子を収めた映像。
マーシャル諸島には、太平洋戦争の爪痕が当時のまま残っていた。

佐藤勉さん:
こんなきれいな島で何で戦争したんだ

佐藤勉さん:
涙がボロボロ出てきた。初めて会えたという達成感が味わえた

父と母を一緒に納めたい…

81歳で亡くなった母・シズエさんが眠る墓に、冨五郎さんの遺骨はない。

佐藤勉さん:
遺骨があるわけない、戦死した人、誰一人。その遺骨を父と母2人一緒に納めたい。親孝行として、それが悔しかった

長年、遺骨の収集を願ってきた佐藤さん。
しかし、国からは、遺骨収集は難しいとの答えが返ってきた。そんな中、周りからの助言で気持ちが切り替えられたという。

佐藤勉さん:
佐藤さん、そんなに考えたって駄目だから、お母さんの遺骨の一部をマーシャルに持っていったらいいんじゃないかと聞いた時に、初めてわれに返った

2019年8月、再びマーシャル諸島を訪れた佐藤さんの手には、母の遺骨があった。

佐藤勉さん:
(日本政府に)違反しないように(遺骨)を粉にして、父がウォッチェ島の埋葬されたであろう場所で散骨した。(※マーシャルの地権者に許可をいただいて行われました)

佐藤勉さん:
私がマーシャルの地に行って、お父さんとお母さん会いましたかと。行くたびに繰り返し伝えることだと思っている

父・冨五郎さんの書いた日記を読むと、手が震える思いがする。
起き上がるのも厳しい状況で書かれたと思われる「最後カナ」という絶筆は、戦争のむごさ、冨五郎さんの無念…、家族への愛…、全てが詰まっている。

「お父さんに会いたい」と佐藤勉さんがマーシャルを訪れた時の様子は、ドキュメンタリー映画になった。
映画「タリナイ」は、オンラインで観ることができる。
チャリティーオンライン上映会は、2020年7月10日〜8月31日まで。

(仙台放送)

仙台放送
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