アメリカ軍による突然の大量爆撃「鳥栖空襲」。50m先に爆弾が落ちた瞬間、とっさの判断で防空壕に逃げ込み間一髪で生き残った中学生。91歳になった今も目の前に広がる悲惨な光景は脳裏から離れない。
いまも残る空襲の傷跡
上部が吹き飛ばされた地蔵。機関銃の弾で貫かれた経典。そして柱に開いた大きな穴。
この記事の画像(16枚)佐賀・鳥栖市の神社には80年近く経った今も「鳥栖空襲」の傷跡は深く残っている。
鳥栖空襲の記憶を語ってくれたのは、鳥栖市永吉町に住む毛利慶喜さん(91)。
1941年12月8日、毛利さんが小学3年生の時、日本海軍の真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が始まった。
毛利さんは「日本が占領していくのを見て喜んでいた。敵と味方にわかれて戦いごっこをしていた」と当時を語る。
アメリカ軍「B-29」墜落を目撃
戦争が始まってしばらくは生活に大きな変化もなく、麦農家で生まれた毛利さんは「麦ごはん」や「塩クジラ」が入った弁当を手に毎日学校に通っていた。しかし、戦争の足音は徐々にそして確実に近づいていた。
鳥栖空襲の1カ月ほど前、当時中学生だった毛利さんが学校から帰宅する途中で見たものは、墜落したアメリカ軍爆撃機「B-29」だった。墜落したのは病院の前だったのを覚えているという。
その場所をこの夏に訪れた毛利さんは、「最初は高いところにいて喜んでいたら、段々と大きくなってきて、なんだか自分の近くに落ちる感じだった」と当時の状況を話す。
B-29は太平洋戦争末期、日本軍が行った飛行機で敵艦に体当たりする特別攻撃隊、いわゆる特攻の中継基地となっていた陸軍大刀洗飛行場を狙って飛来したものだった。
警察が集まっている先の方を見るとB-29のパイロットと思われるアメリカ兵の遺体が横たわっていたという。
鉄道輸送の要「鳥栖」狙った空爆
そして、1945年8月11日午前10時30分、日常が一変する。アメリカ軍による「鳥栖空襲」が行われたのだ。
“侵略者”の異名がついた攻撃機A-26などの爆撃で110人を超える犠牲者が出た。
太平洋戦争末期、アメリカ軍は日本本土で「空襲」を繰り返し、約38万7000人が命を落としたとされる。
その標的のひとつになったのが、「鳥栖のスズメは真っ黒スズメ」と呼ばれるほど蒸気機関車が走っていた北部九州の鉄道輸送の要「鳥栖」だった。
380発を超える爆弾を投下
アメリカ軍は、火薬の原料を製造し小麦など軍用の食料を備蓄していた日清製粉鳥栖工場と、航空機部品を製作していた片倉製糸鳥栖工場をめがけて沖縄の基地から出撃した。
第1波と第2波は南から侵入した32機が鳥栖駅を中心に交差しながら爆撃。
立て続けに西から侵入した48機が日清製粉を中心に攻撃を続けた。投下された爆弾は、30分にわたり95.8トン、380発を超える。
低空飛行…異変に気付き防空壕へ
突然の「鳥栖空襲」。毛利さんはその時、いとこと一緒に木に登って遊んでいた。
毛利慶喜さん:
曽根崎(鳥栖市)の方から(爆撃機が)低く飛んできたのでびっくりした。警報はなかった。急に来たから防空壕に逃げた
異変に気づいた毛利さんは、急いで木から飛び降り、近くの防空壕に逃げ込んだという。
毛利慶喜さん:
(防空壕は)泥がいっぱいだった。(防空壕の)フタに当たって、穴が開いていたように思う。50メートルくらい先に爆弾が落ちたので、その時は恐ろしかった
目の前に広がる悲惨な光景
爆撃がおさまり防空壕の外は景色が一変していた。
毛利慶喜さん:
道路が泥で色が変わってしまっていた。親戚のおじさんが田んぼで仕事している時に落ちたらしく、その家のおばあさんと孫と、よそから親子で来ていた(計)4人が直撃を受けて亡くなった。私のいとこは(私が)横に行って見たら、吹っ飛ばされて虫の息だった
周りは直径10メートルほどの爆弾で空いた穴だらけだった。
“間一髪”で生き残った
毛利さんが生き残ったのは、まさに“間一髪”だった。中学生だった毛利さんの目の前に広がる悲惨な光景。91歳になった今も脳裏から離れないという。
1945年8月15日、太平洋戦争は終わった。
その後、毛利さんは26歳で結婚し、農家と大工の兼業で娘3人を育てた。
毛利慶喜さん:
今は世界が緊張していますが、やっぱり戦争はおきてもらいたくないですね。平和がいいです
(サガテレビ)