8月15日は79回目の「終戦の日」。戦争と差別を考える。

アイヌ民族の青年が出征しました。軍隊では生まれ育ちを侮辱され、「見せ物扱い」された。戦後、彼はその経験を年譜に残した。

「毛深いことを気にして…」小学生のとき父から頼みごと

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札幌から100キロ余り、車で約2時間かかる平取町二風谷。アイヌ文化の拠点として知られるこのマチの墓地だ。

そこで亡くなった父の墓前で手を合わせる人がいた。浜田清孝さん(64)。ここに来ると思い出すのは、父・寛さんからのある頼まれごと。戦友と再会する前夜、典型的なアイヌ民族への差別を気にしてのことだった。

「俺が小学5年生ぐらいだったかな。父が夜、背中の毛をそってくれと。俺もびっくりしました。他の人と風呂に入るのが、毛深いから嫌だったんでしょうね」(清孝さん)

軍隊での遍歴まとめた“年譜” 自らまとめる

清孝さんの父、浜田寛さん(享年82)は1920年、農家の長男として二風谷で生まれた。

札幌市内にある清孝さんの自宅の居間には、寛さんの軍隊での遍歴や戦地での経験をまとめた年譜が飾られている。

寛さんが亡くなる10年前に自ら10枚ほど作り、子どもたちや親せきに配った。父の苦労が記されているという。

「父はアイヌで生まれ、苦労はしたけど、俺、頑張ったんだぞって伝えている」

博物館に残る曽祖父の逸話 1年間の労働の対価が“杯1個”

二風谷の中心部にある博物館では寛さんの祖父、貝沢シランベノさんの話が紹介されている。

博物館の展示によると、シランベノさんが若いころ、北海道の厚岸町で1年間働かされた報酬は杯1つだった。

「生きて帰ってきただけでもマシだったかもしれない」とまで説明が書かれている。

学芸員の広岡絵美さんは「その当時、アイヌが漁場で奴隷のように働かされていたと伝えられています」と補足した。

寛さんは憤りを感じていて、生前、書籍の取材に「本当にひどいもんだよ。シャモ(和人)がいかにアイヌをだまして搾取したかが分かる、証拠品だよな」と答えていた。

学校の試験で満点「アイヌのお前に満点なんか取れるわけがない」

寛さんは70歳になると、地域の広報誌にも体験談を寄せる。1990年には「わたしの生い立ち」と題し寄稿した。

「差別されない日はなかった」と記し、1936年に、獣医になろうと転校した空知農業学校、今の岩見沢農業高校での出来事をつづっている。いわれのない疑いだった。

清孝さんが二風谷の実家で広報誌を見せてくれた。

「そこに行ってたときに頑張って満点を取った。でも、アイヌのお前に満点なんか取れるわけない。誰かのカンニングしたんだろと言われたそうです」(清孝さん)

“赤紙”届き出征 満州でも差別…「熊の肉はないが豚の肉はある」

寛さんは胸を患い休学。二風谷に戻る。そのとき、召集令状、いわゆる「赤紙」が届いた。今から83年前、寛さんが20歳のときだった。当時の日本は国家総動員体制。寛さんも”お国のために”と出征した。

「天皇陛下のために、頑張るんだ俺は。みたいな感じだったんじゃないでしょうか。(父も)これで俺も”日本人”になるのかな、そういうのはあったんじゃないですか」「あのときの親父、アイヌの人たちは、みんなそうなんじゃないですか」

寛さんは1941年1月、二風谷を出発。大阪から約2000人がすし詰めになった船で海を渡り、満州へ。馬車を使った輸送部隊に入った。

そこで待ち受けていたのは、また「差別」。入隊当日、200人の新兵が並ぶ中、一人、前に立たされ、上官に罵倒される。

「日本語分かるか?」「文字読めるか?」「生肉、食ってたんだろう。熊の肉はないが、豚の肉はある」

まるで見せ物扱い。「俺は野獣か!」と広報誌に当時の怒りを書き残している。

「やっぱり軍に来ても差別はあるんだなって、がっかりしたということでしょうね」(清孝さん)

50日間荒野さまよい旧ソ連軍に捕まる…4000キロ超 カザフスタンの収容所へ

年譜には寛さんが軍曹になったことも記されている。二等兵から5階級の昇進だ。

ただ日本軍は敗れ、寛さんは約50日間、満州の荒野をさまよい旧ソ連軍につかまった。

旧ソ連軍の戦車の地響きを聞いたとき、「もう殺される」と降伏したそうだ。

行きついたのは、約4100キロ離れた、今のカザフスタンの強制収容所。

寛さんは清孝さんに当時の凄惨な状況を語っていた。

「引き揚げ列車がやられた。何人死亡し、何人生きて帰れたのか。捕虜は筆舌に尽くせない苦労の連続。これはラーゲリ(収容所)の話なんですよ」

「戦争や差別で苦労したよ」父が残した言葉の重み

その後、さまざまな施設を転々。得意の馬の世話で、旧ソ連軍に気に入られ、生き残った。

帰国は終戦から3年後の12月だった。

「戦争や差別で苦労したよと、よく言っていました。やっぱりアイヌだった私が、これだけの思いをしたんだよって自分で作って家族に渡すぐらいですから」

自らの苦労を年譜という形で家族に託した寛さん。伝えたかったのは差別と戦争のむごたらしさだった。

82歳で亡くなってから20年あまり。その遺志は今も、清孝さんの胸に刻まれている。

北海道文化放送
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