私事ですがフジテレビを8月末に退社することになりました。このコラムは本日最終回です。22歳で大学を卒業してから43年間、長いフジテレビ記者生活でした。最後なので少しだけ振り返ってみます。
地獄で流した涙
1985年8月、26歳。初めて大きな取材をしたのは群馬県・御巣鷹山の日航機墜落事故だった。乗客乗員520名が死亡し、生存者は4名。このうち12歳の女子中学生を救出した消防団員と現場の山に登った。険しい道を腰の曲がった遺族のおばあさんが日航職員や消防団員ら数人に抱え上げられるように登って行く。暑かった。
この記事の画像(19枚)現場に着くと辺り一面真っ黒に焼け焦げて機体の残骸が散乱し、死臭がすごかった。地獄とはこういう所なのかと思った。取材中の社会部の入江敏彦記者が「初日はこの臭いで飯食えなかったんですが2日目からは腹が減って食ってます」と申し訳なさそうに言っていた。
消防団員に救出時の様子をインタビューしたら「生きている子を助けるために多くのご遺体を踏んで走りました。申し訳ないことをしました」と叫ぶように語った。終わった後カメラマンが「撮れてない!」という。急な山道の移動で故障したらしい。
カメラが修理で直ったので嫌がる消防団員に頼み込んでもう一度同じことを喋ってもらった。すると「ご遺体を踏んで…」のところで彼の顔が歪んで、ポロポロ涙が出始め、最後は「申し訳ないことをしました」と嗚咽しながら声を絞り出した。びっくりした。毎年夏になるとあの暑い日と消防団員の涙を思い出す。
ドクターXと見た昭和の最期
1988年9月、29歳。天皇陛下が腸の病気で開腹手術を受けられた時は宮内庁クラブにいた。病状を取材するのに侍医、執刀医を夜回り取材したが守秘義務があるから誰も喋らない。専門医に聞いても「診てない患者のことは言えない」と言う。
ようやく1人見つけてその後は病状を正確に把握できた。宮内庁の発表では病名は慢性すい炎だったが、我々がドクターXと呼んだその医師は「すい臓か十二指腸あたりのがんだろう」と断言した。
当時天皇崩御の際に民放テレビ局は3日間CMなしで放送するという内規があったので、毎晩7時に行われる報道局の編集会議には普段は来ない営業や総務の社員も駆けつけ、私がFAXで送って社会デスクが読み上げるXの「病状メモ」に耳を傾けた。
Xによると陛下の年齢(85歳)では、すい炎とがんで治療法や余命に大きな違いはなく、侍医団はある程度の延命治療を行うが余命は1年くらいではないかということだった。実際には手術から1年3ヶ月でほぼ的中した。
1989年1月7日早朝、昭和天皇崩御。宮内庁発表の死因は十二指腸がんだった。昭和が終わった。
その28年後、ドクターXが下血で入院との知らせを受け病院に駆けつけた。医師の説明を聞いていたら「デジャブ(既視感)」を感じた。「下血」「大量出血するので水分は取れない」「血圧が下がると怖い」などいつか聞いた話だった。1ヶ月後にXは亡くなった。昭和天皇崩御の日と同じような1月の寒い日だった。死因は同じ十二指腸がん。ドクターXは私の父だった。
人民解放軍にカラシニコフで撃たれた
その5ヶ月後、外信部に異動した私は北京にいた。政治改革に失敗した胡耀邦総書記が心筋梗塞で急死し、怒った学生たちが天安門広場で座り込みを始めたのだ。しかし6月3日の夕方に状況は急変した。
広場を人民解放軍が取り囲む中、目の前で警察の装甲車に学生たちが火炎瓶を投げ込んだ。学生たちは興奮して目が吊り上がっており、もはや騒乱状態だった。そして午前2時、広場の先にある中南海(共産党本部のある昔の紫禁城)の塀の上に人民解放軍兵士数十人がすくっと立ち上がり、こちらに向けて軽機関銃・カラシニコフをパンパンと撃ち始めた。
ちなみにカラシニコフの「パンパン」という銃声は軽快で、子供の頃遊んだ「かんしゃく玉」にそっくりな音だった。帰国後のある日、子供が公園でかんしゃく玉で遊ぶのに遭遇し、「人民解放軍か」と思わず座り込んだことがある。
皆がまさに「くもの子を散らす」ように逃げた。私とカメラクルーも近くの北京飯店というホテルに逃げ込んだ。倒れている人を何人か見た。銃声や怒号は数時間続いたが夜が明ける頃に急に静かになった。
広場に戻ると昨日まで学生たちが築いていたバリケードが綺麗さっぱり取り払われ、あたりには誰もいない。自転車で卵を売りに来たおじさんがいるだけだった。中国共産党政府は事件による死者が319人と発表したが、西側の報道では1000人単位の犠牲者が出たのは明らかだ。
欧米の通信社は「天安門虐殺」という見出しで出稿したが、フジテレビを含む日本のメディアは「天安門事件」としか呼ばず、その後日本政府は経済制裁を欧米各国に先駆けて解除し、天皇訪中も実現させた。
兵士の死、同僚記者の死
1994年12月。私は34歳で5年弱の米国ワシントン支局の勤務を終えまもなく帰国するところだった。御巣鷹で会った入江記者がナイロビで飛行機事故に遭い行方不明という一報が入った。
カイロ支局勤務だった彼とは1ヶ月前、取材でイスラエルで会ったばかりだった。当時テレビ中継装置を飛行機やヘリで運べるフライパックというものが開発され、アンカーパーソンを世界中に送る「ロケーションアンカー」のチームをフジでも作り、私と入江君もそのメンバーに入ることになっており、2人で遅くまでそのことを話し合った。
外信部に来てから、天安門事件、東欧革命、そして湾岸戦争と危険な取材が多かったが不思議なことに自分が現場にいる時はほとんど恐怖を感じない。アドレナリンが上がっているかららしい。だが「しらふ」に戻ると他人の死がたまらなく怖くなる。
ある時、米軍基地の格納庫でずらっと並ぶ棺を見た。湾岸戦争で亡くなった兵士の遺体はボディーバッグ(遺体袋)に入れられ輸送機で米国の空軍基地に運ばれそこで棺に移されて、車に乗せられ、自宅に帰される、と聞きなぜかクラクラッと来た。
革命であれ戦争であれ日常的に人の死に接するのは辛い。その後入江君の遺体が発見された。彼の死が理由だったのか、「ロケーションアンカー」計画はなくなり、私は帰国後外信部を離れ政治部に移った。
「今より後の世をいかにせむ」
2022年7月8日、私は63歳になっていた。「安倍さんが撃たれた」という電話を妻から受け、とりあえず自宅に戻ってテレビをつけて祈るような気持ちで見ていた。だが会見した岸田首相が泣いているように見えて「ああもうダメだな」と思った。午後5時3分、安倍晋三元首相死去。享年67。通算8年8ヶ月の間首相を務めた。
安倍氏が亡くなる3ヶ月前に話をした。ロシアがウクライナに核攻撃をするのではないかと見られていた頃で、「ロシアが撃ったら米国も撃ち返すのか」と聞いたところ安倍氏は「撃ち返さない」と即答した。「何千何万の人が死ぬのに米国は撃てない」「日本が中国に核攻撃されても米国は撃たない」と続けた。
だから日本もドイツのように米国と「核共有」しなければいけない。それを米国に頼んだが「私たちがやりますから」と断られたという。
安倍氏の言いたかったことは「日本も核を持て」ではない。自分の身は自分で守らなければダメだ、ということだ。「悪い奴らが日本に攻めてくるかもしれないから守りを固め、やられたらやり返すという意思をはっきりと奴らに示せ、そして軍事同盟を結んでいる米国とリアルに協議しろ」ということだと思う。これは安倍氏の遺言だと私は勝手に思っている。
葬儀では盟友だった菅義偉元首相が弔辞を読み、伊藤博文の死を悼む山縣有朋の「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」という歌を紹介した。有朋はこの中で明治維新を共に成し遂げた盟友の突然の死に絶望し、この後の世をどうしたらいいのかと嘆いている。
安倍、菅政権の後を継いだ岸田政権は経済ではアベノミクスの継承から出口戦略、外交安保では防衛力の強化と日米同盟の強化など着実に成果を出しているが、政治資金の裏金問題などで低支持率に苦しんでいる。
またLGBT法や移民政策に反発した保守派が自民党から離れているのも深刻な問題だ。次の解散総選挙では与党過半数割れの可能性も取り沙汰されている。
1人で9年近く首相を務めた「絶対権力者」亡き後の世はしばらく混乱が続くのだろう。だが有朋の「今より後の世をいかにせむ」は嘆きの言葉であると同時に「これからは自分でやらねばならない」という決意の言葉でもある。「今より後の世」は生き残った者たちが作っていかなければならない。
43年間のフジテレビ記者生活で多くの人の死に接し、また多くのことを学びました。7年ほど毎週続けた「平井文夫の言わねばならぬ」はこれでいったんおしまいです。今後もフジテレビ客員解説委員として不定期で書きますのでその時は読んでください。またどこか別の場所でお目にかかれるかもしれません。長い間本当にありがとうございました。それではさようなら。