2000人を超える犠牲者が出た岡山空襲から2024年6月29日で79年。当時を知る人は高齢化が進み、年々、語り部が少なくなってきている。当時5歳で戦火をくぐり抜け、現在、広告代理店で会長を務める男性が空襲体験を語った。
岡山空襲から逃れた壮絶な体験
「恐らくこの辺から出たと思う。真っすぐ、ずっと行ったと思う。それで向こうへ、ダーッと逃げた。ひたすら」と幼少期の体験を語るのは、岡山市の総合広告代理店・ビザビの前坂匡紀会長、84歳。
この記事の画像(13枚)ビザビ・前坂匡紀会長:
パラパラパラパラパラパラっていう。ヒューとかなんじゃないですね。何かばらけたようなパラパラパラって落ちてきているようだった。あれがきっと後から考えると焼夷(しょうい)弾。そんな感じだった。
1945年6月29日未明の岡山空襲。父親が経営するビザビの前身、大毎広告社の社屋兼住宅で父・正一さん、母・光子さん、そして2人の弟と祖母の6人で暮らしていた。
空襲当日、父親はおらず母親(当時29歳)は、1歳半の三男を背負い、3歳の次男と5歳の前坂さんの手を握って南へ逃げた。
前坂会長は「恐らく、この一角だと思う。この小玉促成青果、ここら辺がそうだった。この辺に氷屋があって」と当時逃げた道を説明する。
焼け野原となった岡山 語る戦火の記憶
米軍の爆撃機B29、138機が放った焼夷弾は約890トン。
弾を避けながら逃げる途中、母親は突然、前坂さんと次男の手を離した。
「焼夷弾が降ってくるもんですから、落ちたら危ないみたいな感じだった。逃げる途中でご近所のどこかのお家に(母親が1人で)入って、(持ってきた)布団を上に被るような形で、母親がそれをやった記憶がある。まあわずかな時間だったが、そのわずかな時間がすごく長くて不安だった」と当時を振り返る。
そして家族がたどり着いたのは約700メートル先の京橋のたもと。ほかの人も集まってきた。母親は、弟らのことで精一杯だったため「兄ちゃんは黙ってじっとしておれ」ということで、うずくまっていたという。
この川べりで身を伏せている最中、旭川の中に弾が落ちる音がしていたため、前坂さんは生きた心地がしなかったと言う。
「音があって(着弾の)結果がわかるわけで、そういう中で、本当にビクビクしながら母親にしがみついていたんだろうと思う」
午前2時43分に始まった岡山空襲は4時7分まで84分間続いた。
空襲が終わったあと、三々五々、自分の目的地へ動き出した。朝まで起きていた前坂さん、明るさが戻ってから見たものはもう何もない焼け野原だった。
戦争の記憶を語り継ぐ前坂会長の思い
当時の岡山市の防空本部と警防課が当日の午前10時に調べた市内の消失範囲の記録では、当時の市街地の63%、約5.5平方kmを焼き尽くした。
前坂さん家族が暮らしていた建物も例外ではなかった。
「岡山が本当に焼け野原になって、あのあたりが家の跡だったんかな、みたいなことを思うと、この写真が一番私としては胸に突き刺さりますね」
戦時中をうかがい知る物として唯一残ったのが写真。親族が持っていたものを譲り受けた。
写真に写る、自宅兼会社の建物にははしごがかかってる。これは、焼夷弾など火災になった場合、水をかけて消す訓練ではないかなと想像しているそうだ。母親が建物の外に出ているのも、この訓練のためではないかと思っている。
戦後、前坂さんが学生のころ、父親は脳溢血(のういっけつ)で急逝した。大学を中退し、会社を引き継いだ前坂さんは今もあの時と同じ場所で働いている。
「不幸な出来事だったが、やはりこの時期にもう1度ああいうこともあるんだよということを、もう1度思い起こすことは、私みたいに多くの人に話すことのない人間でも何かの機会で聞かれると、ささやかな経験の中で話すことはできるので、これは経験した私の役目だと思う」と、強い思いで前坂さんは、戦争の記憶を語り継いでいた。
(岡山放送)