太平洋戦争末期。アメリカ軍による本土空襲は静岡県内にも及び多数の被害をもたらした。ただ、伊豆半島の南部にある下田市が複数回 空襲に見舞われ、100人以上の犠牲者を出したことを知る人は県内でも多くない。

開国の街も空襲の標的に

1945年4月12日。

静岡県下田市に住む荒井育代さん(92)は母親と共に現在の南伊豆町から下田市の奉公先へと向かう途中で空襲に遭遇した。

荒井育代さん(92)
荒井育代さん(92)
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下田市に対する空襲はこの日が初めてで、アメリカ軍の爆撃機は下田港付近に複数の爆弾を投下した。それはまさに、育代さんが武ガ浜の橋を渡ろうとした時のことだった。

育代さんは無我夢中で橋を渡り切ると、怖さと驚きのあまり見ず知らずの家を訪ねた。すると住人が「中に入りなさい」と言ってくれ布団をかけてくれたため「爆弾を落とす音だけがわかった」という。橋には育代さん以外にも行き来をしていた人がいて、この家の住人は全員を室内で匿ってくれたそうだ。

育代さんが空襲に遭遇した武ガ浜の橋
育代さんが空襲に遭遇した武ガ浜の橋

轟音が鳴りやみ外に出ると辺りの景色は一変していた。記憶に残っているのは負傷兵を抱きかかえる兵士の姿だ。

幕末にペリーが来航し“開国の街”として知られる下田市。だが、この地が複数回の空襲に見舞われたことはあまり知られていない。

学生時代の育代さん
学生時代の育代さん

育代さんも母親から戦争について「何も言うんじゃない」と固く口止めされていたことや、同級生の多くが沼津市の軍需工場に勤労動員として駆り出されていたにもかかわらず地元に残った後ろめたさもあり、下田空襲について娘の福美さん(61)にさえ語ってこなかった。

きっかけは大学生のインタビュー

自身が目の当たりにした惨事について重い口を開いたのは2年前のこと。学習塾を経営する福美さんの教え子が、大学の卒業制作として「下田空襲について調べたい」と協力を求めたことがきっかけだった。

幼き日の育代さんの写真を見る荒井さん母娘
幼き日の育代さんの写真を見る荒井さん母娘

その際、インタビューに同席した福美さんは「全然知らなかった」と驚くと共に「よく母が生きていてくれた。そうでなければ今の私がないと思うとゾッとした」と振り返る。
静岡県内では規模の大きな静岡空襲や浜松空襲がよく知られているが、下田市も複数の空襲により100人以上が命を落としたと言われている。

福美さんが中心となり立ち上げた語り部の活動
福美さんが中心となり立ち上げた語り部の活動

福美さんは母が居合わせ、多くの犠牲者を出した下田空襲の記憶を後世に伝えなくてはいけないと思い、所属する子育て支援グループの仲間と共に語り部の活動を始め、地元の小中学校で戦争経験者の話を子供たちに伝えている。そこには「戦争を知ることで、未来で何かあった時に選択を間違えないで済むのではないか」との思いがある。

1635年に創建された寺も被害

一方、日米和親条約が結ばれた場所として知られる了仙寺。この寺もまた下田空襲の被害を受けた場所の1つだ。松井大英 住職によれば、1945年6月10日の空襲の折、境内にいた人たちが複数死亡したほか、本堂の屋根も吹き飛ばされた。

日米和親条約が結ばれた了仙寺
日米和親条約が結ばれた了仙寺

また、本堂の裏手には「横穴遺跡」と呼ばれる洞窟古墳があり、戦時下では防空壕としても活用されたものの、近くに落ちた爆弾の爆風により死亡した人もいるという。

本堂裏手の横穴遺跡は防空壕としても活用された
本堂裏手の横穴遺跡は防空壕としても活用された

なぜ寺が空襲の標的とされたのか?それにはわけがある。当時、了仙寺には青森や藤枝の部隊など軍事関係者が駐屯していたためで、毎年6月10日には今も墓参に訪れる遺族もいるそうだ。

了仙寺・松井大英 住職
了仙寺・松井大英 住職

松井住職は「母から本当に生々しい話は聞いていた。実際に体験した人の話は説得力があった」と話し、戦争の悲惨さを後世に伝える必要性を感じている反面「どう受け継いで次の世代に伝えられるのかはまだ今のところわからない。現実から離れた話だけをしていても先には進まないものの、現実の悲惨さを知らないと話自体がすごく軽くなってしまう」と悩みを口にし、戦禍の苦しみを語り継ぐ難しさに直面しているのも事実だ。

終戦から78年。戦争を経験した人は減り続ける一方だ。それゆえに悲惨さと平和の尊さを伝える難しさもある。それでも後世に伝え続けることを止めないことは今を生きる私たちの使命と言えるだろう。

(テレビ静岡)

テレビ静岡
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