終戦から78年。樺太で戦争を体験した女性は「だから戦争って悔しい」そう振り返る。ソ連兵による性暴力被害、何度も連れ去られそうになった母を必死で守った。「ありがとう」という最期の言葉が忘れられないと語る。

84歳現役バスガイド

福島県喜多方市に住む白田千恵子さんは、84歳の現役バスガイド。週末と祝日は喜多方市内を循環するバスに乗り、市の魅力を伝えている。喜多方に住み始めて75年が経つが、生まれ故郷は樺太だ。

白田千恵子さん(84) 喜多方に住んで75年
白田千恵子さん(84) 喜多方に住んで75年
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早く逃げなさい 爆弾落ちるから

白田さんが持っていた、ある一枚の写真。
「これが私と母を写した、樺太での写真です。たった一枚です」

大切な写真を見せてくれる白田さん
大切な写真を見せてくれる白田さん

樺太で生まれた白田さん。小学校1年生の時、戦争は突然始まった。
「ランドセルを腰掛にかけた途端に、校内のサイレンが鳴った。みなさん戦争が始まるから早く逃げなさい。家でお父さんお母さんの言うこと聞くんですよ。早く行きなさい、爆弾落ちるから。と言われて、みんな一斉に家に帰って。そこから戦争が始まった」

母・千代さんと写る幼い白田さん
母・千代さんと写る幼い白田さん

何も悪い事していないのに…

太平洋戦争末期の1945年。ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、樺太に侵攻した。白田さんの住んでいた家は焼け、母・千代さんとの逃亡生活を余儀なくされた。
「千恵子、何も悪い事してないのに家焼かれてしまったなって。涙ポロっとね」

「何も悪い事していないのに家が焼かれてしまった」
「何も悪い事していないのに家が焼かれてしまった」

母の手を離さず

戦争の恐怖は、白田さん自身にも襲い掛かった。ソ連兵による性暴力被害。母・千代さんも何度も連れ去られそうになった。
「(Q:ソ連兵に連れていかれそうに?)そうそう、引っ張って。母親の手を、私も離さなかった」

連れていかれそうになる母の手を離さなかった
連れていかれそうになる母の手を離さなかった

必死で引き留めたから一緒にいられた

戦後、白田さんが今でも忘れられない事。それは、母・千代さんが病気で亡くなる前、最後に発した言葉だった。
「死ぬ間際に”千恵子があそこで泣いてくれたから、こうやって一緒にいられた”というのが最後の言葉でした。”ありがとう”と言って息を引き取った。その声がいまだに忘れられない。だから戦争って悔しい」
あの時、泣きながら引き止めたからこそ、今こうやって生きていられると話す。

忘れることができない最期の母の言葉
忘れることができない最期の母の言葉

喜多方市で始まった平和な暮らし

終戦後は、樺太からの引き揚げが叶い、喜多方へ足を踏み入れることになった。
「樺太から引き揚げてきて、蔵の中で3カ月過ごして。初めて一戸建ての、長屋でしたが引き揚げ住宅を建ててもらって」

かつて住んでいた場所を案内する白田さん
かつて住んでいた場所を案内する白田さん

喜多方は縁もゆかりも無い土地だったが、引き揚げ住宅の提供を受けるなど、温かく迎えられ平和な生活を送れるようになった。

感謝の気持ちを込め街の魅力を伝える仕事に
感謝の気持ちを込め街の魅力を伝える仕事に

絶対にやってはいけない

第二の人生を送る白田さん。「恩を感じている」という喜多方市の魅力を、バスガイドとして伝えるとともに、戦争についても機会があれば後世に伝えていきたいと話す。
「戦争って絶対にやらないでほしいですよね。人間対人間の戦いはどんなに苦しくても」

人間対人間の戦いはどんなに苦しくてもやってはいけない
人間対人間の戦いはどんなに苦しくてもやってはいけない

戦争の恐ろしさを知るからこそ、いま白田さんは平和のありがたさを実感している。

(福島テレビ)

福島テレビ
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