終戦から77年。太平洋戦争末期、人類史上類をみない自爆攻撃を行った旧日本軍。
福島・南相馬市には、死を前提に戦地へ向かう操縦士を訓練した「飛行場」があった。

戦局打開の自爆攻撃「特攻」 19歳の若さで命落とす

1944年10月25日、旧日本海軍の神風特別攻撃隊・敷島隊が出撃した。
フィリピン・レイテ湾のアメリカ軍艦隊を撃沈するため、爆弾を抱えたまま体当たりする、戦局打開のために採用された自爆攻撃「特攻」。
敷島隊の1人、現在の南相馬市原町区出身の中野磐雄少尉。19歳の若さで南方の海に散った。

敷島隊の1人 中野磐雄少尉
敷島隊の1人 中野磐雄少尉
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語り部・大槻明生さん:
お骨(中野磐雄少尉の遺品)が原町の駅に来るということで、お迎えに小学校全員。全員で2列になってずーっと(並んで)、それでみんな手を合わせた。今は70何年たっているわけね。そうすると、近くに来ても全然わからない人が多いですよ

当時小学生だった大槻明生さん(88)は、南相馬市に残る戦争の記憶を伝えようと語り部として活動している。

語り部として活動する大槻明生さん
語り部として活動する大槻明生さん

住宅地に残る一対の門柱。ここにかつてあった原町陸軍飛行場のものだ。

場所は、雲雀ヶ原祭場地の近く。現在は住宅と畑が広がっているが、アメリカ軍が終戦から2年後に撮影した航空写真には、原町飛行場の跡が写されている。

語り部・大槻明生さん:
(ここに集まったのは)まだ成人になったばっかりの兵隊。だから、そういう方が命を落とすというかね、そういう話は辛いですよね

全国各地から集められた飛行訓練兵。
太平洋戦争の末期には、ここで訓練を受けた若者が特攻隊員として戦地へと向かい、命を落とした。

軍事機密にされた原町飛行場…託された1枚の写真

2022年3月。地域の人から原町飛行場に関する1枚の写真が大槻さんに託された。訓練兵を含め、飛行場の関係者を収めた集合写真だった。

語り部・大槻明生さん:
頭(散髪)をやってくれる人、洗濯をしてくれる人とか、そういう方がやっぱりいたんでね。だから女性が入ってるのね、何人か

軍事機密のため、限られた人しか立入りが許されなかった原町飛行場。
当時の関係者が見取り図を作成したが、そのほかに何人が訓練を受けていたか、働いていたかなど、詳細な資料はほとんど見つかっていない。

そして飛行場があったが故の被害もあった。
1945年2月、初めて空襲を受けた原町。その後、飛行場の存在を知ったアメリカ軍が、同年8月にも激しい空襲を行い、飛行場を含め駅や学校などを破壊。相次ぐ空襲によって、14人が犠牲となった。

語り部・大槻明生さん:
私は、今でもアメリカの飛行機の弾を撃った音。飛んでいく音が今でも残っている。原町空爆の体験者として、これからもしっかりと頭がしっかりしている限りは、やっぱり(後世に伝えることを)やっていかないと。他人ごとではない、自分のことを考えても

多くの若者が犠牲となった「特攻」。そして、特攻へ向かう若者を送り出した原町飛行場。

時代の流れとともに戦争の記憶が風化していく中で、大槻さんは固く不戦の誓いを守り続ける。

語り部・大槻明生さん:
(戦争は)良いことは何にも残らなくて、悪いことばっかり残ってしまう。今の子どもに戦争を体験させてはならない。戦争になるようなことは、絶対避けなければならない

(福島テレビ)