“Mad”という英単語は文脈によって色々な意味を持つ。激怒している・偏愛している・のめり込んでいる・常軌を逸しているなどだと思うが、いずれも尋常ではない状態を指している。

表題に掲げた“MAD”も尋常ではない。

「MAD」=“相互確証破壊”とは

発音は“Mad”と同じだが、3つのアルファベット全てが大文字で書かれているのが表記上異なるのは、これが3つの単語の頭文字で出来ているからだ。

故に文法的には“M.A.D.”が正確なのかもしれないが、“MAD”とは“Mutual Assured Destruction”の略語である。日本語では“相互確証破壊”と称される。

その意味するところは、強大な核戦力を保有する国がやはり同じような核戦力を保有する国に核攻撃を仕掛けると報復を招いて全面核戦争となり、結果的に両国とも確実に破滅するという考え方である。この相互確証破壊への恐怖=terrorが双方にあったからこそ、米ソは全面戦争をしなかったし、今でもアメリカとロシアは直接戦争を避けようとしているのだと思われる。

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核戦力だけを見れば米ロにはかなり劣る中国が、今、その増強に余念がないのは、十分な核戦力を構築することによって相互確証破壊に対するアメリカの恐怖をより確実なものにしようとしているからだとも言える。相互確証破壊への“恐怖の均衡”と呼ばれる状況をより明確に作り出そうとしているのであろう。

まさに尋常ではない。核抑止論の詳細に立ち入る程の知識は筆者には無いのだが、こうした事態が恐ろしいことに間違いはない。

また、北朝鮮もワシントンを確実に叩ける核ミサイルの開発に余念がない。しかし、アメリカとの間で彼の国が恐怖の均衡を成し遂げるのは難しい。何といっても国土のサイズが違い過ぎるし、ミサイル防衛能力だけを見ても比べ物にならないからだ。代わりに、北朝鮮は短距離と中距離の核戦力で韓国と日本を人質状態に置き、次元は異なるが、別の意味での恐怖の均衡を作り出そうとしているように見える。いや、こちらの恐怖の均衡はもうほぼ作り出してしまっていると言えるのかもしれない。

湾岸戦争にみる「WMD(大量破壊兵器)」

関連して“WMD”という言葉をご存知の方は多いと思う。
こちらは”Weapons of Mass Destruction”の略語である。日本語では“大量破壊兵器”と訳される。

その代表が核兵器であることは言うを待たないが、”Weapons“と複数形で言及されている場合は生物兵器化学兵器も含まれる。
N.B.C.”=”Nuclear, Biological and Chemical”兵器と呼ばれることもある。

この3種類の兵器の内、化学兵器、平たく言うと毒ガスが使用されるに至る敷居はそれ程高くない。実際、シリアの内戦でアサド政権は反対派への攻撃に塩素ガスを使ったし、イラクでもかつてのフセイン政権は国内反対派への攻撃に、うろ覚えだが、びらん性の毒ガスを使用したとされる。

1990年のイラクによるクウェート侵攻を受けて翌年1月に始まった湾岸戦争では、イラクがイスラエルに対して毒ガスを搭載したミサイル攻撃を仕掛けるのではないかと危惧された。

ガスマスクをつける当時のイギリス軍兵士
ガスマスクをつける当時のイギリス軍兵士

当時、ロンドンに駐在していた筆者のチームは、その対策として、化学防護服とガスマスク、防弾チョッキを購入し現地に赴いた。購入した防護品は全てイギリス軍が使用していたのと同じもので、使い方は取材がてらイギリス軍兵士に教わった。

イスラエルで空襲警報が鳴り響き、初めてガスマスクを装着した時の、まさに心臓が口から飛び出しそうな恐怖は今でも忘れられない。ホテルの部屋の窓枠には内側からテープで目張りをして外の空気が入って来ないようにしたし、取材時には常にこれらの嵩張る防護品を車に積み込んだ。ガスマスクは肌身離さず携行した。完全にびびっていたのである。不思議なものでじきに慣れたのも事実だが、そんな経験もした。

空襲警報が鳴ったら地下へ…

閉口したのは空襲警報が鳴ると基本的に地下にある防空壕に逃げ込まなければならないことだった。爆弾の衝撃を避けるにはそれが一番だからだ。しかし、毒ガスに対しては、それが使われたら風上に、それが駄目なら上に逃げろと専門家から教わってもいた。毒ガスは空気と同じような重さかやや重いので地下は避けよとも言われていたからである。

しかし、イラクによる毒ガス攻撃は杞憂に終わった。御存じのようにイラクはテルアビブにあるイスラエルの国防省本部やサウジアラビアに置かれたアメリカ軍基地を目掛けて何度も旧ソビエト製のスカッド・ミサイルを発射したが、それらに毒ガスを搭載することは無かった。全て通常弾頭であった。

毒ガスの使用を諦めさせた“報復の恐怖​”

後で分かったことだが、アメリカはフセイン政権に対し、大量破壊兵器である毒ガスをイラクが使ったら、自分達も大量破壊兵器、ただし、アメリカの場合は核兵器、で報復すると警告していた。これが効いたのである。均衡は全くしていなかったが、大量破壊兵器による報復の恐怖はフセイン政権に毒ガスの使用を諦めさせる効果を発揮したのは間違いないようだ。

テレビで演説する当時のフセイン・イラク大統領(1991年2月)
テレビで演説する当時のフセイン・イラク大統領(1991年2月)

「たら、れば」の話になるが、このWMDによる脅しが無かったならばフセイン政権は毒ガスを使用したかもしれない。その結果は悲惨なものになった恐れは強い。そして、イスラエルの参戦により湾岸戦争はエスカレートし地域全体を巻き込んだ大戦争に発展したかもしれない。そうならなかったのはアメリカによる脅しに対する恐怖があったからという側面は否定できない。

こんなケースに限らないが、MADな恐怖の均衡など無い方が良いのは論を待たない。しかし、これが全く存在しなくなると、特に大国同士の、戦争を抑止する力が減じてしまうのも、哀しいかな、世界の現実かも知れない。

【執筆:フジテレビ解説委員 二関吉郎】

二関吉郎
二関吉郎

生涯“一記者"がモットー
フジテレビ報道局解説委員。1989年ロンドン特派員としてベルリンの壁崩壊・湾岸戦争・ソビエト崩壊・中東和平合意等を取材。1999年ワシントン支局長として911テロ、アフガン戦争・イラク戦争に遭遇し取材にあたった。その後、フジテレビ報道局外信部長・社会部長などを歴任。東日本大震災では、取材部門を指揮した。 ヨーロッパ統括担当局長を経て現職。