デジタル先進国は快適だった

夏休みに行ったシンガポールは社会がデジタル化されていて便利だった。たとえば地下鉄はスマホかクレジットカードで「ピッ」として乗るが、どちらも持ってない人は駅で現金1000円払ってSuicaのようなカードを買い、「ピッ」として乗る。切符というものがないのだ。

だから駅には券売機がない。カードは駅員から買い、現金でチャージできる小さな機械が各駅に一個だけある、というシンプルなつくりだ。日本だと「なぜ初乗り160円だけだと買えないのか」と文句が出そうだが、デジタルとアナログの妥協案としてこういうチケットレスシステムを作っているシンガポールの方が、やたら複雑な券売機が駅ごとにある東京よりはるかに効率的だ。

日本では切符を現金で買うこともできるが…
日本では切符を現金で買うこともできるが…
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日本で公共交通のデジタル化が遅れているわけではない。地下鉄だけでなく新幹線も飛行機も予約から搭乗までスマホだけでできる。ただ日本は「すべての人に親切」だ。現金で160円の切符を買う人や、電話で予約する人を排除しない。これは素晴らしいことだが、逆に言うとシステムを複雑化しコストを上げ、デジタル化を遅らせている。

日本で今、大きな問題になっているマイナンバーカードと健康保険証の統合については、この「デジタル対アナログ」の問題だけでなく、「自分の医療情報が漏洩するのではないか」という不安を持っている国民が多いらしい。

実は個人の医療情報はマイナカードによって漏洩することはない。マイナカードのICチップには病歴や税金の情報などプライバシー性の高い情報は記録されないので、マイナカードから漏洩することはない。これは意外に知られていないので政府は「フェイク情報」をきちんと否定しないとダメだ。

マイナ保険証は実は安全

今起きているマイナカードのトラブルはアナログからデジタルへの切り替えで生ずるミスだ。いずれなくなる。実は従来の紙(今はプラスティック)の保険証には顔写真もないし住所も書かれていない。だから「なりすまし」による不正などはマイナ保険証になればほぼなくなるし、年間500~600万件に及ぶ「古い保険証を持ってきたため使えない」というトラブルもなくなる。

26日の国会の閉会中審査では維新の猪瀬直樹議員がこの話をしていて、さすが猪瀬さんだと感心したが、なぜ与党の議員はこういう大事なことを言わないのか。

参院地方創生・デジタル特別委員会の閉会中審査で質問する維新・猪瀬直樹議員(26日)
参院地方創生・デジタル特別委員会の閉会中審査で質問する維新・猪瀬直樹議員(26日)

Twitterを眺めていたら、「保険証の貸し借りができなくなるのでマイナ保険証は反対。保険証の貸し借りレンタル料で生活している人もいるのです」という投稿を見つけて驚いた。保険料の自己負担のない人が薬を大量にもらってそれを転売する、など「健康保険の闇」はいろいろ聞くが、レンタル料で生活というのは初めてだ。もし事実ならマイナ保険証はやはり必要だ。

マイナ保険証への不安として挙げられているのが「マイナカードがないと保険診療が受けられないのか」という話だ。実はこれが一番重要かもしれない。政府は保険証が廃止された後もマイナカードを持たない人は「資格確認書」があれば保険診療を受けられるという説明をしているが、この説明がダメだ。

たとえば「認知症で施設に入っていて、家族も遠くにいて、マイナカードを作れない人は今までの保険証でいいですよ」となぜ言わない?デジタル社会は便利なのはわかっている。ただそれについていけないのではないかと不安に思っている多くの人のことを考えないとデジタル化はできない。

台湾のデジタル相 オードリー・タン氏
台湾のデジタル相 オードリー・タン氏

台湾でもデジタル化は進んでいるが、デジタル相のオードリー・タン氏はITをコロナ対策に活用し、例えばマスクの流通などをうまくやった。タン氏の話を聞いたことがあるのだが、デジタルを社会に根付かせるためのやり方として「スマホを持ってない人は紙と鉛筆でも良い。ただデジタルの方が早いですよと説得すべきだ」と説明している。アナログを残すということなのだ。

前述のシンガポールの人口は500万人、台湾は2300万人だ。実は1億2000万人の人口がいる「大国」である日本で、「小さい」シンガポールや台湾と同じようにデジタル化ができるかというとこれはなかなか難しい。

1億人以上の人がいれば、経済、教育、価値観などかなりの多様性がある。その上、民主主義が確立し、報道の自由が保障されている国において思い切った改革というのは実はやりにくいものなのだ。

アナログを残すことの功罪

日本においてマイナカードと保険証の統合を含むデジタル化を進めるには「アナログを残す」しかないのだろう。問題は「アナログを残す」すなわち「すべての人に親切」にすることにより、コストが上がるだけでなく、デジタル化のスピードが遅くなることに対し、デジタルに強い人たちが不満を持つことだ。

たとえば筆者は6年前にマイナカードを取得したのだが、これまで「いいな」と思ったのはポイントを2万円分もらったことと、確定申告がスマホでできるようになったことくらいだ。

マイナカードでパスポートの「更新」はできるが…
マイナカードでパスポートの「更新」はできるが…

病院にマイナカードを持って行っても受付の人に「なんですかそれ」みたいな顔をされることがいまだにある。またマイナカードでパスポートの「更新」はできるが「失効」や「新規」はできない。「失効」だった筆者は先日、有楽町の交通会館で4時間並んだ。

国のマイナカード政策にかかわっているという学者に聞くと「いずれ5分ですべての行政サービスを受けられるようになる」という。確かにそうなる事はわかるのだが、マイナカードを作ってもう6年でまだこの状況なので、果たして63歳の筆者が死ぬまでに「5分」でできるようになるのか。

おそらく「すべてに人に親切」で「絶対ミスをしない」ために日本のデジタル化はこれからも時間がかかるだろう。筆者は60歳で定年して再雇用の身なので、時間的に余裕もあるし、別にデジタルでもアナログでもどちらでもいいのだが、現役で忙しい人たちにとってデジタル化の遅れは困るのではないか。

いやむしろ加齢とともにアクティブでなくなれば、社会がデジタル化してくれないと困るかもしれない。

今やメディアや野党だけでなく与党も保険証の廃止の延期を求めている。それに対して「いや予定通り廃止しろ」と言える空気ではないが、実は黙っているだけでそう思っている人は意外に多いのではないか。今後、日本のデジタル化をめぐって社会はデジタル派とアナログ派に分断されることになるような気がする。

【執筆:フジテレビ上席解説委員 平井文夫】

平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。