千葉県の建設会社で浦安の埋め立て事業やディズニーランドの建設に関わっていたと思われる義父に聞かされた話である。当時、義父がボヤくことしきりだったのが「浦安のディズニーランドの運営会社の株を割り当てで買う破目になった。酒も出さない、弁当の持ち込みも許さない遊園地が長持ちする筈はない、堪らん」と。
自分の父親ではなかった為根掘り葉掘りは訊かなかったので真相は知らぬが、どうやら株を持たされたのは本当だったらしい、何故なら、その後暫くして、株主優待入場券が筆者のところに回ってきたからだ。「余っている。使ってくれ」と。
義父の周り中が株を持たされていたせいもあると想像するが、当初はそんな感じだった。
今や昔の話である。
既に社会人になり結婚していた筆者は、昭和のサラリーマンとして休日は睡眠補充が最優先だったので、優待券は正直言うと有難迷惑だった。しかし、歳の随分離れた小学生の従兄弟二人の事を思い出し、結局、彼らを連れて行ったと記憶している。それが筆者にとって初のディズニー体験になった。
ディズニー以前の遊園地と言えば…
ディズニー以前の遊園地と言えば、郊外にある大規模な所にはプールかスケートリンクが設置されているのが一般的だったように記憶している。そこに昭和の家族はお弁当と水筒を持って行くのが普通であった。お父さん達は、最初の頃こそ子供達に付き合って一緒に遊んでも、弁当を食べる頃に酒を飲み始め、午後は子供同士だけで適宜遊ぶというのも珍しくない光景だったと思う。

40年前に開園した東京ディズニーランドには、プールもスケートリンクも無い。酒は販売していない。今では酒も供すると筆者は理解しているディズニーシーはまだ存在しなかった。弁当は園内では食べられず、外の別の場所に行かなければならなかったと記憶している。(筆者の記憶違いであれば大変申し訳ない。お許しいただきたい。)
付け加えれば、例え園内でも食べ歩きは上品ではないという考えもまだ少し残っていた。
当時の大人達の常識では長持ちする筈は無かったのである。
しかし、ディズニーランドは日本の遊園地の、今ではテーマパークと言うのかもしれないが、姿を一変させてしまったと言っても過言ではないかもしれない。
後に生まれた筆者の子供も、ねずみのキャラクターを愛していた。
そういう子は何処にでもいたし、今もいる。大人になってもそういう人は少なくない。
イギリスの友人に「日本人は19世紀のイギリスの衣装を着た日本人のパレードを何でそんなに喜んで見るのだ」と真顔で問われたこともあるのだが、多くの日本人がそれをずっと楽しんでいるのも紛れもない事実である。
開園後数年を経てからだったと思うが、以来、ディズニーランドはずっと大人気である。
ご同慶の至りである。
アメリカで痛感したディズニーランドの有り難み
筆者個人がディズニーランドの有難みを痛感したのはアメリカに駐在してからだった。
何故なら、自動車はおろか自転車、スケボーに子供が轢かれる心配無用、マリファナの匂いはしないし、喧嘩も恐ろしげな犯罪も起きない。あちこちでスタッフ(キャストと言わなければいけないのかもしれない)の眼があるので、迷子にさえならないように気を付ければ、安心して子供を遊ばせることが出来た。子供が少々騒いでも気にする必要はなかった。物騒な事件が頻発するアメリカの中で、ディズニーのテーマパークは親が気を緩ませても大丈夫な数少ない遊び場だったのだ。そのせいか、大人達もにこやかな事この上なかった。

帰国後、子供が中学生になった頃には「連れて行ってくれ」とはせがまれなくなった。ご多分に漏れず「友達と行くからお小遣いを頂戴」に変わった。結構、寂しい思いをした記憶もある。
義父は程なくして株を手放したと聞いている。「上場まで待っていたら…」と思わずにいられない筆者はやはり「夢の国」にはふさわしくないのかもしれない。