戦後、沖縄県読谷村はアメリカ軍に約95%の土地を強制的に接収されていたが、現在は6割あまりが読谷村に返されている。

土地を取り戻してきた背景には読谷村の人々の強い想いと知恵があった。 

沖縄戦で激変 村の中心部には飛行場

1945年、沖縄戦で読谷村にアメリカ軍が上陸してから2023年4月1日で78年を迎える。

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波平にあるチビチリガマでは、住民が集団自決に追い込まれ85人が亡くなるなど、読谷村でも沖縄戦によって多くの命が奪われた。

この沖縄戦がきっかけで、読谷村はその姿を大きく変えた。

戦後、アメリカ軍は読谷村の約95%の土地を強制接収し、基地として利用してきた。

そして現在の読谷村では、アメリカ軍基地の面積は約36%までに減った。

村の中心にあるのが役場で、周りには野球場や福祉施設などが建ち並ぶこの場所は、かつては読谷補助飛行場があり、戦前に旧日本軍によって建設され戦後はアメリカ軍が利用した。

その歴史を物語る史跡が残されている。

沖縄テレビ 延総史 記者: 
軍用機を攻撃から守るという目的で建てられたこの掩体壕(えんたいごう)からは、この土地に日本軍の飛行場があったことがわかります。

元町長の決意 「基地も抱き込んで村づくりを進める」 

読谷飛行場の土地を取り戻そうと力を注いでいたのが、元村長の山内徳信さんだ。

当時の村長 山内徳信さん: 
私たちは基地を避けての村づくりは基本的に進めないという考え方です。基地をも抱きこんで村づくりを進めていく、これが読谷村の村づくりの基本的な考え方です。

戦後、読谷補助飛行場ではアメリカ軍によるパラシュート降下訓練が日常的に行われていて、1965年にはトレーラーが落下し、当時小学5年生だった少女が下敷きになり亡くなるなど、多くの事故が起こった。 

当時の村長 山内徳信さん: 
いつまでもパラシュートの演習をやっているということは許されないことです。早めに米軍も演習場を撤去して地元に返してほしいです。

当時を知る田島利夫さん。 
田島さんは山内元村長が進める読谷補助飛行場の返還計画をコンサルタントとして支えた。 

田島利夫さん: 
徳信さんは、返還に向けて少しずつ取っていこうという戦略でした。

しかし、その飛行場を取り戻そうとしたときにアメリカ軍が飛行場にアンテナを設置する計画が浮上する。

反発する地主たちが座り込みなど身体を張って抗議活動を展開。

田島利夫さん: 
地主さんたちが、その工事者の方々をストップさせたり、溝に入って出てこないとかいろいろ実力行使をするんですね。

結果的にアメリカ側は工事を断念した。

田島利夫さん: 
あの時のアンテナができてしまったら、返還は無かったんじゃないかなと思います。

米側との交渉をスムーズにした共同使用 最大の布石は役場の建設

読谷村は飛行場だった土地を着実に取り戻す計画を練っていた。

その手法は共同使用だ。

住民とアメリカ軍が利用できる施設として野球場などを建設することで、アメリカ側との交渉をスムーズにした。

村が共同使用を進めるなかで土地を取り戻すための最大の布石としたのが、飛行場中心地への役場の建設だった。

田島利夫さん: 
野球場を作ったあと運動場をつくる、一歩一歩進めていくんです。その中に役場の移転という目標が定まりました。これも共同使用でお願いしたいですということをずっと米軍と大蔵省に折衝するんですね。

しかし、役場の建設には待ったがかかる。

田島利夫さん: 
大蔵省は、なんでまた沖縄の行政がそこを使わなきゃいけないのということでバツなんですよね。

難航する交渉 活路を風水に見出す

役場の建設が難航する中、田島さんたちはあるものを用いて読谷村がその場所に無ければならないような意味付けをした。風水だ。

田島利夫さん: 
残波岬をくちばしにして、鳳凰が飛び立とうとしている姿です。読谷飛行場はちょうど中央にあって、その鳳凰のお腹にあたります。飛行場跡地はものを作るところ価値を作るところですよ、というような占断(せんだん)です。こういう言い方は素敵だなと思いました。跡利用を説明するときにもちょうどぴったり合います。

この風水の考えが直接基地の全面返還に繋がったわけではないが、この鳳凰の姿は読谷村内で多く見ることができる。

返還を決定づけた出来事 2007年に飛行場が全面返還

そして、1995年、読谷補助飛行場の返還を決定づけた出来事が起こる。

田島利夫さん: 
少女暴行事件が起きて、沖縄中が燃えるわけですよね。あの時に日米合同委員会がその沖縄の激しい抗議運動に対して、米軍基地を縮小整理しましょうと。

少女暴行事件を皮切りに沖縄の米軍基地の整理縮小の機運が高まり、読谷補助飛行場の返還が決定した。 

1997年には念願だった役場が建設され、飛行場は2007年に全面返還された。

沖縄テレビ 延総史 記者: 
これが実現するとは思っていましたか?

田島利夫さん: 
半々ですね。かなり難しいとは思っていました。

飛行場の跡地には、不戦の誓いなど数々の平和に関するモニュメントが建てられている。

沖縄戦で土地を奪われた住民たちは自らの強い想いと知恵を絞り、生活の根幹であるその土地を取り戻してきた。

人口が全国で一番多い村となった読谷村。
今後、役場の周辺には畑や幹線道路ができる予定で、村の象徴である鳳凰がさらに読谷村を活気づける。

(沖縄テレビ)

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