「政治家として歩む中で、ここが本当の自分を試されている時だと感じました」

そう語るのは、田村憲久前厚生労働大臣(58)、日本中が新型コロナウイルスの恐怖に包まれていた2020年9月、6人に1人が感染という状況下で管轄省庁である厚生労働省の大臣に就任。“テレビで田村さんを見ない日はない”というほど、ある意味一番大変な時に厚労相になったという印象が強い。

田村憲久前厚生労働大臣(58)
田村憲久前厚生労働大臣(58)
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今回前編では、田村氏に激動の日本のコロナ対策の中心で何を見て、感じ、指揮を執ってきたのか、当時の心境などについて聞いた。

2020年9月16日、菅内閣が発足し、田村氏は自身にとって二度目の厚生労働大臣(一度目は第2次安倍内閣時)に任命された。

2020年9月菅義偉内閣が発足
2020年9月菅義偉内閣が発足

自身二度目の厚労相、就任時の想い

ーーコロナが国内で確認されて大変な時に就任しましたが、当時はどのような想いで引き受けたのか?

まずは加藤さん(前任の厚労相)は大変だったんだろうなという気持ちでしたね。コロナなんて起こるとも思っていないで大臣になられて、途中から未知の感染症が広がりだした。私はコロナが始まって半年ほど経ってからなので、他の厚生労働行政の課題はありますが、やはりコロナが一番の課題だという認識の下で大臣をお引き受けしました、そういう意味では一度目とは全く違う大臣になるなっていう覚悟の上でした。

ーー菅前首相からは大臣に任命される際にどのような言葉を?

実は総裁になられた後に菅さんからは「自分が総裁になったら、あなたには厚労相をやってもらおうと思っていた」というようなお言葉をいただいていて、それは本当にありがたかったですね。大変なのは分かっていましたけど、政治家としてそういう時に託されるというのはある意味、本当の自分が試されている時だという想いでした。ただ試されているでは済まない、国民の命がかかっているので、要は結果を出さなくてはいけない。本当に潰されそうなプレッシャーと任されたことへの責任、一方で自分自身が今そういう大変な時にこの任に就いているという重みを感じながら、引き受けさせていただきました。

未知のウイルスとの戦い

新型コロナウイルスという当時は誰も経験したことのない感染症、まさに暗中模索状態での未知のウイルスとの戦い。実際に政府の政策に対しては批判的な声もあったが、その中でどの様に政策判断を下してきたのであろうか。

「一番難しかったのは「最悪の事態をどう想定するか」これが本当に難しくて、つまり今までない感染症ですから、感染者がどれくらい広まるのかが分からない。広がり方によって医療提供体制も、それから様々な医療資機材の確保をしていかなくてはいけないので、怖かったですね。当時は日本の人口の6.7割くらいの国が多いヨーロッパを参考にしていました。ヨーロッパを見ると感染者が倍になることも想定できたので、とにかく第3波がある程度下がってきたときに役所で「医療提供体制、ベッドも含めて今回の倍、感染が起こっても対応できるような体制を組んでくれと」指示を出しました。なかなか難しいという声もありましたが、段階的でもいいのでと。ところがその夏は感染者が3倍になりましたからね。」

ーー当時テレビでは田村氏を見ない日がないというほど、フル稼働だった印象であった。大臣としてはどのような一日を過ごしていたのか。

まず答弁の数が1年間で3776回でした。一回目に大臣をやったときは2500~600回くらいだったので、ちょっと異常なくらいでしたね。朝は大体早い時は午前3時前後に起床して、遅くても5時には起きていました。多いときは質問が120問とか来るんですよ。これを全部、答弁のために準備しなくてはいけないので、役所は答弁書を徹夜で作っていて、午前4時には一回送ってほしいと伝えてありました。実はタブレットだと書き込んで返しづらいので、うちには業務用のFAXが置いてあってそこに送ってもらうんですが、物凄い勢いで届く。朝5時、6時過ぎになっても届くこともありましたね。そのFAXを朝ごはんを食べながらチェックして、この答弁では駄目だと書き込みなどを入れて、そういう作業を朝6時までには終えたい。そこから色々と準備して朝7時から役所で答弁の打ち合わせがあり、朝8時には閣議、その前に会議が入ることもありました。

厚労相として会見に臨む田村氏
厚労相として会見に臨む田村氏

ーー午前中だけで一日の体力を使い果たしそうですね。

朝の閣議の後は大臣の記者会見があって、そのあと委員会などがあるんですが、これが長くて、厚生労働委員会は長い時は午後5時くらいまでありました。それで終わって役所では決済事項もたくさんあり、日によってはアドバイザリーボード(厚労省にコロナ対策を助言する専門家組織会合)を初めの頃は22時頃までやっていましたから、それが終わって宿舎返って風呂だけ入って、すぐ寝てまた次の日は午前4時前に起きるみたいな生活が土日は別として一つの生活パターンでしたね。今でも、その習慣が身についてしまって朝5時前には絶対に起きますね。早い時は20時半とかには寝て4時前に起きちゃうので、最近はもう夜風呂入らずに朝風呂です(笑)

厚労相時代の一日を振り返る田村氏
厚労相時代の一日を振り返る田村氏

厚労相として日々、記者会見などメディアの前で話す機会も多かった田村氏に、国民に納得してもらえるよう、何を一番意識していたかを聞くと、「まず自分が聞いて理解できるか」ということを大事にしていたという。

「自分の言葉を咀嚼するというのは、自分が理解しないと喋れないじゃないですか。伝える時には、やはり分かり易く伝えないと伝わらないし、分からない文面をずっと伝えるよりも時間が短く済む。なので、常に自分が理解できるように喋ろうと、自分が理解できるのであれば皆さんにも理解していただけると、そういうことは常に心掛けていました。

厚労相として報道番組などに出演し、自らの言葉で説明する姿も多く見られた
厚労相として報道番組などに出演し、自らの言葉で説明する姿も多く見られた

菅前首相とのエピソード

コロナ対策に関して、菅前首相とは綿密に連携を取りながら常に政策を進めていたというが、どのようなコミュニケーションが取られていたのか。田村氏は当時ワクチン担当大臣を務めた河野太郎大臣とのエピソードも交えながら話してくれた。

「(菅政権が発足して)年明けてすぐに感染が広がった時には、毎日菅さんから「ベッド何床確保できましたか?」という連絡がきていました。「田村さん、ベッド、ベッド」もう1月はそればかりでした。もうとにかく国民の命、要はまずはベッドがないことに治療はできないと、それは凄い勢いでしたね。「田村さんあなたの命というか、職を賭けてちゃんとやってください」と言われることもありましたね。」

ーーワクチン接種一日100万回という目標を菅前総理は掲げられましたよね?

「できるか?」というような話でね。もうほぼやってくださいでしたけど(笑)。結局僕が他のコロナ対応でワクチンまでやらせたらパンクするだろうということで、河野太郎大臣にお願いをしていただいた。ただ、河野大臣もご自分の知り得る限り調べた上で「一日100万本なんて無理だ」と何回も菅さんに俺言ったんだけど、駄目なんだよって僕の方に電話かかってくるんですよ。そして次に菅さんの方から僕に連絡がきて「どうだ?」って。季節性インフルエンザは一日のピーク時に大体60万回くらい打っていますと、だから100万回は今の医者以外に同じ様な体制を整えれば可能性はありますという話をして、気が付いたらあっという間に突き進んで一番多い時には一日160、70万回打っていましたからね。だからあの後、河野大臣と「やっぱり菅さんって凄いよね」と、俺達だったら多分これ無理だから80万回にしようと話し合ったけど、菅さんの英断があってこのスピードで打てたので、やはり二人で菅さんの凄さは改めて実感しましたね。

田村氏と河野太郎前ワクチン担当相。
田村氏と河野太郎前ワクチン担当相。

当時の厚労相としての生活や、菅前首相とのやりとりについて話してくれた田村氏。

後編では、専門家との連携や現状の政府のコロナ対策についての見解を聞いた。

社会部
社会部

今、起きている事件、事故から社会問題まで、幅広い分野に渡って、正確かつ分かりやすく、時に深く掘り下げ、読者に伝えることをモットーとしております。
事件、事故、裁判から、医療、年金、運輸・交通・国土、教育、科学、宇宙、災害・防災など、幅広い分野をフォロー。天皇陛下など皇室の動向、都政から首都圏自治体の行政も担当。社会問題、調査報道については、分野の垣根を越えて取材に取り組んでいます。

木下康太郎
木下康太郎

フジテレビアナウンサー。
神奈川県横浜市出身、上智大学卒。
2010年フジテレビ入社。
主に情報、報道番組を担当。
とくダネ!、知りたがり!、めざましテレビ、めざましどようび、グッディ!を担当し、現在は日曜報道THE PRIME・情報キャスター。
厚生労働省・国交省の記者も兼務している。