デフリンピックとは、聴覚障害者のための国際的なスポーツ大会で「ろう者のオリンピック」とも呼ばれる。2022年9月にオーストリア・ウィーンで国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)総会が開かれ、2025年のデフリンピック開催地が「東京」に決まった。

デフサッカーを知ったのは20歳の時

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日本列島を沸かせたサッカーFIFAワールドカップ・カタール大会。日本代表がたくさんの感動を与えてくれた。ところで、もう一つの“静かな”サッカーがある。それが「デフサッカー」だ。

デフサッカーの古島啓太(ふるしま けいた)選手(32)。大阪出身で、これまでブルガリア・ソフィア大会、トルコ・サムスン大会のデフリンピックを経験した。サムスン大会では、日本選手団の旗手やキャプテンを務めた。ポンジョンはミッドフィルダー。

古島選手は、3歳の時に耳が聞こえないと診断された。サッカーを始めたのは5歳の時。それから高校卒業までずっと健常者の中でサッカーを続けていた。

大学入学後、全国の聴覚障害者の学生が活動をする「ろう学生懇談会」というサークルに入り、そこで出会った友人に、聴覚障害者のサッカーチーム「大阪アジアンタール」に誘われた。このチームに参加し、デフサッカーに夢中になっていった。

「ろう学生懇談会」では手話も覚え、コミュニケーションの楽しさを知った。それまでは、相手の口の動きを読んで会話をする「口話」でしか、人と話をしていなかった。「口話」では、相手の言葉を見落とすことがあるが、手話ではそれがほとんどない。手話ができる人としか会話できない難点はあるが、手話話者同士では話がほとんど100パーセント伝わるので、会話の楽しみは深まっていった。

手話で話す楽しさを知ると同時に、サッカーのプレースタイルも変わっていった。これまで健常者のサッカーの中でプレーをしてきたこともあり、プレー中につい声を出す癖があった。声を出してパスの相手を振り向かせるといったことを普通にしていた古島選手にとって、「声」が役に立たないデフサッカーで、どんなプレーをしていくのか、課題だった。

健常者のサッカーでは、選手同士が声を出してコミュニケーションをとる。パスが欲しいとき、相手に動いてほしいとき、自分がマークを外して別の動きをするときなどに、「声」は重要な役割を果たす。古島選手は聞こえないが、周りの選手は声を出し合ってコミュニケーションしていた。古島選手は、周りを人一倍見るよう意識して、健常者の中でのプレースタイルを自分なりに確立していった。

しかし、デフサッカーにはその「声」がない。試合中は補聴器を外さないといけないルールで、選手は「聞こえない」という前提が厳密に守られている。ここで重要なのはアイコンタクトだ。パスを出すとき、パスを受けたいとき、目を合わせることが重要なコミュニケーションである。各選手はボールをキープしている選手の意図や周囲の状況を把握し、どう動くか判断する。声を使えない分、余計に意思の疎通や各選手のプレースタイルへの理解が大事だ。

この選手同士の理解のためには、普段からのコミュニケーションが必要だ。古島選手は、ピッチ外でも他の選手との付き合いを大事にしている。性格、好みなど、がプレーに出る。選手同士が互いに理解し合っていることが、チームの強さにつながる。手話によって感じたコミュニケーションの楽しさは、「人のつながりを重視したサッカー」に古島選手を導いたと言える。

20歳の時、デフサッカーの日本代表に出会い、日本代表になりたいと強く思い、本気でサッカーと向き合う決意をした。以来、サッカーは常に自分の生活の「軸」となっている。32歳となった現在も、それは変わっていない。健常者のチームとデフサッカーのチームに所属し、練習に励んでいる。

ブラジル大会に出場できず…落ち込んだ日々

2022年5月に行われたデフリンピック・ブラジル大会では、デフサッカー男子日本代表は出場できなかった。ブラジル大会出場資格を得るための予選となるアジア大会が、2019年に香港で開催予定だったが、民主化デモのために延期となった。その後、世界的な新型コロナウイルスの感染拡大によって予選実施の予定が二転三転し、最終的には2021年5月にイランで開かれるアジア大会を予選とすることになった。

この当時、日本では急激な感染拡大のため緊急事態宣言が出ていて、海外渡航が禁止されていたため、デフサッカー男子日本代表は、予選に参加しないままブラジル大会の参加を諦めざるをえなくなった。

(Q:デフリンピックに出場できないとなったとき、どんな気持ちでしたか?)
古島啓太選手:
4年に1回の大会ですし、自分にとっても輝ける場所。今までお世話になった方に恩返しできる場でもあった。なのに今まで準備してきたことが台無しになり、モチベーションが下がりました

実は、古島選手は「家族にこれ以上負担をかけられない」という気持ちが強くなっていき、ブラジル大会でサッカーを引退しようとしていた。しかし、ブラジル大会不参加が決まってしばらくすると、「このままで終わっていいのか」という気持ちが大きくなっていった。

そしてもうひとつ、自分をサッカーに向かわせる大きな力がある。3歳の息子の存在だ。東京大会の時には5歳になる。そんな息子に「サッカー選手として活躍している自分の姿を見せたい」という気持ちが古島選手を奮い立たせた。もう一度デフリンピックのピッチに立ちたい、その気持ちが、ゆるぎないものになっていった。

安定した環境でサッカーに打ち込みたいと希望していた古島選手。2022年7月には、住友電設とパラアスリート契約をした。

11月に職場を訪ねると、古島選手は同僚たちと一緒にデスクに向かい、仕事していた。印象は、まさに普通の会社員といったところだ。同僚たちとは、主にスマートフォンの「UDトーク」という音声認識アプリを使用してコミュニケーションを取っている。

会社の上司は古島選手の働きぶりをこう評した。

住友電設株式会社 人事部 水間大雄企画課長:
まじめに仕事もサッカーもしている。一緒に仕事をすることで我々も成長できます

住友電設株式会社 人事部 藤原知広部長:
障害があることを古島さんは仕事の中であまり出されずに働いています。コミュニケーションに何か難しいところがあるのではないかと思っていましたが、一緒に働いていくにつれ、我々の思い込みだと気づかされました

そんな、普通のまじめな会社員が、いったんグランドに立つと、激しく躍動し始める。

12月初旬、古島選手の所属チーム「大阪アジアンタール」が、大阪府内のグラウンドで練習をしていた。ボールが足に吸い付くようなボールタッチ、力強いキック。ボールを軽快に操る古島選手の姿からは、これまで2度のデフリンピックを経験してきた貫禄のようなものも感じた。

プレー中のアイコンタクトや、チームメイトとの普段のコミュニケーションも人一倍意識して取り組んでいることが伝わってきた。何より、古島選手の周りの選手が、みんな笑顔なのが印象的だった。

デフサッカーの認知度が低いのはなぜ? 2025年東京大会に向けての意気込み

2025年のデフリンピックの開催地が東京に決まり、古島選手はますますやる気になった。何が何でもメダルを獲得するという強い気持ちだ。

「”デフサッカー”を日本の人たちに見に来てもらい、知ってもらえるチャンス」と古島選手は話す。

パラリンピックで視覚障害者のサッカー「ブラインドフットボール」は知られるようになったが、それに比べるとデフサッカーは認知度が低いのが現状だ。パラリンピックに比べてデフリンピック自体の認知度が低いことも背景にあるが、デフサッカー日本代表が目立った成績を残せていないことが大きいと古島選手は考えている。これまでデフリンピックのグループリーグで、予選を突破できたことがない。

東京大会で良い成績を収め、デフサッカーを多くの人に知ってもらう…これが古島選手の今の目標だ。東京大会では絶対に予選を突破し、メダルを獲得しないといけないと話す。

また、これまでの経験をもとに若手選手の育成などに力を入れている。若手層の実力の底上げ、そしてもっと多くの人に自分が大好きなデフサッカーを知ってもらう。そんな大きな夢を持っている。

–Q:2025年デフリンピックに向けての目標は?

古島啓太選手:
東京デフリンピックは、自分が生きている間にあるかないかのチャンス。後悔だけはしたくないし、結果が求められるので、必ずメダルを獲得します

FIFAワールドカップ・カタール大会では日本代表が強豪のドイツ、スペインを破った。日本サッカーの底力は、本物だと多くの人が実感した。そしてデフサッカーも負けてはいない。デフサッカーの強豪国としては、トルコやウクライナが有名だが、古島選手は、それらのチームに勝利して、メダルを取ることを心に決めている。東京大会でメダリストになること。「そんな自分の背中を息子に見せたい」と笑顔で語ってくれた。

(取材:関西テレビ報道センター 永川智晴)