299人が犠牲になった長崎大水害から2022年7月23日で丸40年を迎えた。長崎市東部で建設業を営んでいた男性のあの日と、その後の50日を記録誌と関係者の証言からたどる。

道路は濁流…至るところで土石流や山崩れ

「国道脇の小さな一建設事務所が、図らずも災害対策本部と化した(新・川物語より)」

財団法人河川情報センターが1994年に発行した「新・川物語」。川を舞台にした人の営みを全国から集めた16編のひとつ「一夜の大雨に戦った50日」。

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帰宅途中らしい女子高校生が歩いていく姿に気付いた。
「こらあ!そのまま行ったら流されて死ぬるぞ」(新・川物語より)

長崎大水害は、1982年7月23日から翌24日未明まで、長崎市を中心とした地域に発生した集中豪雨で、特に長崎市中心部から北東に約10kmの所にある長与町役場では、観測史上最大の1時間に187mmを記録。各地で土石流や山崩れなどが多発し、299人の犠牲者を出した。

「新・川物語」の舞台のひとつ、長崎市船石町も水害を受けた地区だ。市東部を流れる八郎川の最上流部にあって、諫早市と隣接する緑豊かな地域だ。

船石町には、かつて数多くの石橋があった。しかし、4つのアーチ式石橋が長崎大水害で流失、半壊してその後、解体された橋もある。それでも、2つの石橋がかろうじて残り、地域の風景の中に溶け込んでいる。一方で、水害では住民3人が亡くなり、家屋7戸が流失した。

船石町前自治会長・本田勝敏さん:
道路が濁流だった。至るところが山崩れで

船石町自治会長・松尾忠昭さん:
82歳の一人暮らしのおばあちゃんを、2人の消防団が助けに行って、3人とも水害で流されて亡くなられた

船石町自治会長・松尾忠昭さん
船石町自治会長・松尾忠昭さん

「地域に恩返しを」地元で建設業営む男性の奮闘

船石町の入り口に置かれた高さ2メートル近くの自然石、長崎大水害の記念碑。1989年(平成元年)大水害から7年後の秋、地元の人たちの手で建てられた。

碑の建立を呼びかけた男性は2021年5月、93歳で亡くなった松尾和昭さん。水害当時は働き盛り、地元で建設業を営み、あの大雨の夜、事務所を自宅に帰れなくなった人たちのために開放した。

船石町前自治会長・本田勝敏さん:
肝っ玉の大きいというか。地域の為なら何でもするような人間だった

松尾和昭さんの長男・忠昭さん:
地元愛というか、地元でずっと育ってきて。感心するほど一生懸命やっていた

松尾さんの奮闘は、あの雨の夜だけではなかった。

「再び雨が降り出せば、新たな被害が出るに違いない。まずは道=道路を確保することだ(新・川物語より)」

地元で建設業を営む者として地域に恩返しをと、松尾さんは重機を使って地域内の道作りにあたった。

「こういった災害で、真っ先に役立つのは自衛隊。それと重機を持っている私ら土建業者ですからね。こういう時こそ、地元で仕事させてもらっとる恩返しをしないと(新・川物語より)」

松尾和昭さんの長男・忠昭さん:
おかげさまでという気持ちを忘れたらいかんと、いつも言っていた、自分だけで生きているんじゃないと。

「新・川物語」はさらにこうつづっている。

「やがて季節は秋。松尾さんがやっと初めて自宅に帰り、ボロ雑巾のように布団に倒れこんだのは、集中豪雨の日から数えてちょうど50日目のことだった(新・川物語より)」

松尾和昭さんの長男・忠昭さん:
縁の下の力持ちで、おふくろがいたからできたのかなと思っている

息子の忠昭さんは、家業の建設業を引き継ぎ、隣町に社屋を移転。地域の自治会長も務めている。

――今、災害が起きたら同じことをしますか?

松尾和昭さんの長男・忠昭さん:
しないといけないでしょうね。私だけでなく、重機を持ってる植木屋さんとか、色んなときに動いてもらってます。木を切ったり石を片付けたり。みんな船石が好きだからやってる

あの夏の雨から40年、地域に残し、伝えたい、愛する町を守った人の物語がある。

(テレビ長崎)

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