10月25日は何の日かご存じだろうか。第二次世界大戦中の1944年10月25日、アメリカ軍の爆撃機が投下した爆弾が長崎県の中央に位置する大村市を襲い、約300人が命を落とした「大村大空襲」の日だ。
当時“東洋一” 巨大な軍需工場を標的に行われた空襲
大村大空襲は、1941年に作られた軍需工場「第21海軍航空廠(こうくうしょう)」を標的に行われた。
この飛行機工場では、九州各地から学徒動員された子どもたちを含む数万人が、戦闘機の「紫電改」や偵察機の「零式観測機」などを製作していた。
「第21海軍航空廠」の敷地は66万坪。今の海上自衛隊大村航空隊や大村郵便局、大村工業高校などがすっぽり収まるほどの広さがあり、当時東洋一と称されるほど巨大な工場だった。
航空廠ができた当初から、建物の設計やエンジンの素材研究を担当していた男性が当時のことを話してくれた。
神近義光さん(90)※2015年取材当時:
東洋一の飛行機工場ですよ。アメリカの飛行機工場より大きかった。(自分は)飛行機の材料を試験していた。高度試験を専門にしていた
いまも弾痕残る防空壕…「棺おけを300作って荼毘に付した」
あまり知られていないが、現在も当時の防空壕(ごう)がひっそりと残されている。
記者:
防空壕の入り口は厚いコンクリートの壁に守られていました。壁をよく見ると、ところどころに、くぼみがあることが分かります。実はこれ弾痕なんです。現在にも空襲の激しさを伝えています
1944年10月25日午前10時、アメリカ軍のB-29・78機が、航空廠の上空を襲った。
航空廠本部の屋上にいた神近さんが光る銀翼を見た直後、焼夷(しょうい)弾や爆弾が次々と降り注いだ。身体を伏せつつ、受け持ちの工場に走ったという。
神近義光さん(90)※2015年取材当時:
(動員学徒に)お前たちはうろうろすんなと、動くなと防空壕に入れ、動くなと。そんなことしかできないわけですよ。僕も慣れていないから。初めてだから。空襲は、そのうち2時間が過ぎてあっという間だった。瀕死(ひんし)の重傷になったりして、病院に連れて行くやつもおるし、死んだやつはどうしようもない
この空襲による死者の数はおよそ300人。航空廠は壊滅的な被害を受けた。
神近義光さん(90)※2015年取材当時:
棺おけを300、短時間で作って、その棺おけにみんなを入れて荼毘(だび)に付して、海岸べたで焼いたんだけどね。それが空襲の現状ですよ
大村大空襲の犠牲者も含め、航空廠に関わって犠牲になった541人を弔う慰霊塔が大村市内にある。戦後、神近さんはこの慰霊塔の建立に深く関わった。
神近さんは、自身の設計事務所だった場所に資料展示のコーナーを作った。
また、空襲の歴史を後世に伝えようと、高齢ながらも本の出版に向けて精力的に活動を続けてきたが、2020年、志半ばでこの世を去った。また1人、歴史を知る人が姿を消した。
「二度と繰り返していけない…」遺志つなぐ慰霊祭
神近さんや大村大空襲で犠牲になった人の遺志をつないでいこうと、2022年10月25日、大村市内で慰霊祭が営まれた。
第21海軍航空廠殉職者慰霊の会・小林拓雄会長:
「第21海軍航空廠」は開設から3年10カ月の短命に終わりましたが、二度と戦争のない恒久平和の実現に努めていくことが私たちに課せられた使命と確信
叔父を空襲で亡くした堀川眞理さん:
大村市に住んでいる人もこういった事実が歴史の中にあったということをご存じない方が多いのではないか。歴史をよく見て、二度と繰り返していけないなと思っていただければなと
戦後77年、当時をしのぶものはほとんど残っていないが、竹松駐屯地では、2022年から空襲の被害を受けた建物を一般に公開している。
参列する遺族も年々少なくなる中、遺族は「自分たちが暮らす町で起きたできごとについて目を向けてほしい」と話している。
(テレビ長崎)