洋食器や鎚起銅器などで、今や世界に知られる新潟・燕市の金属加工技術。
その歴史について、燕市産業史料館の齋藤優介さんに話を伺った。

実はカラフルに変化する「銅」

なぜ燕市で金属加工業が発展したのか?その背景については知らない人も多い。
この施設は、そんな燕市の金属加工業の歴史がわかる博物館だ。

燕市産業史料館(新潟県燕市)
燕市産業史料館(新潟県燕市)
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松尾和泉アナウンサー(左) 燕市産業史料館・齋藤優介さん(右) 
松尾和泉アナウンサー(左) 燕市産業史料館・齋藤優介さん(右) 

建物に入ると、入り口には色合いの異なる板が壁を覆っている。

2階吹き抜けの高さまで様々な板が並ぶ
2階吹き抜けの高さまで様々な板が並ぶ

燕市産業史料館・齋藤優介さん:
これは燕市の伝統工芸技術・鎚起銅器(ついきどうき)です。

松尾アナウンサー:
赤いものや青いもの、様々な色ですが、これはみんな銅なんですか?

燕市産業史料館・齋藤優介さん:
これはすべて銅です。鎚起銅器は叩いて形を作るものなのですが、熱の入れ方や薬剤の配合などで色を出すこともできるんです

銅のサビを出すと青くなり、溶ける寸前まで熱して急冷させると赤くなるのだそう。様々な方法で、銅本来の色を出しているんだとか。

この他にも様々な色が
この他にも様々な色が

金属加工の始まりは”農民の副業”

燕市の金属加工技術の歴史は400年前から始まったそうだが、なぜ金属加工が発展したのだろうか。

1700年代初頭、近隣の山から産出された銅が燕市に持ち込まれ、さまざまな製品がつくられた。さらに、燕市の金属加工が発展したもう一つの大きな背景が「洪水」だ。

燕市産業史料館・齋藤優介さん:
江戸時代初期の燕市は度重なる洪水に悩まされ、稲作が難しい土地でした。そこで、困窮する農民の副業として「和釘づくり」が始まりました。それが燕市のものづくりの始まりと言われています。

和釘
和釘

さらに江戸の大火などで需要が高まった事で、燕が和釘の一大産地となったようだ。

燕市産業史料館・齋藤優介さん:
釘を金づちで叩くところから燕市の金属産業がはじまり、鎚起銅器の製造も行われるようになりました。

鎚起銅器の始まりは「杜の都

鎚起銅器は、一枚の銅板を金槌や木槌で叩き、延ばしたり縮めたりしながら作った、つなぎ目のない立体の製品。

鎚起銅器の制作過程
鎚起銅器の制作過程

燕市の鎚起銅器の生産はどのように始まったのか。

燕市産業史料館・齋藤優介さん:
燕の鎚起銅器の技術は仙台から伝わってきました。当時仙台には、大阪などから連れてきた金属を彫る職人がいました。その中の一人が燕に来て、技術を教えたと言われています。

鎚起銅器の製造場所の復元
鎚起銅器の製造場所の復元

その後、鎚起銅器作りの技術を応用し、ヤスリやキセルなど様々な製品の金属加工産業が広がっていく。

細かな細工が美しいキセル
細かな細工が美しいキセル

人間国宝の鎚起銅器  その技法は?

鎚起銅器はやかんなど、日常の道具として作られてきた。

鎚起銅器のやかん
鎚起銅器のやかん

日常の道具だった鎚起銅器が、今では“燕鎚起銅器”として新潟県の伝統工芸品になっていて、2010年には、玉川宜夫さんが人間国宝として認定された。

燕市産業史料館・齋藤優介さん:
玉川さんは、特に鎚起銅器作りの中でも非常に難しい技法と言われる、木目金(もくめがね)技術の第一人者なんです

人間国宝・玉川宜夫さん
人間国宝・玉川宜夫さん

木目金(もくめがね)の鎚起銅器は、銅や銀など、異なる金属を複数枚重ね合わせて火に入れて、金属の塊を作り、それを木目模様を出しながら一枚の金属板にする。そこから叩いて、つなぎ目のない立体を作り上げていくものだそう。

木目金の鎚起銅器
木目金の鎚起銅器

燕市産業史料館では、玉川さんが手掛けた様々な作品を見ることができる。

人間国宝の作品がずらりと並ぶ
人間国宝の作品がずらりと並ぶ

今では「燕で作れない金物はない」と言われるほどの燕市の金属加工技術。
ぜひ間近に見て触れてみてはいかがだろうか。

燕市産業史料館
新潟県燕市大曲4330-1

(NST新潟総合テレビ)

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NST新潟総合テレビ
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