日本では旧統一教会(世界平和統一家庭連合)と国会議員の関係や、安倍元総理の国葬の是非などが大きく報じられる日々だ。どのような政治活動が行われ、税金がどう使われるのか。国民の厳しい目が注がれている。
この記事の画像(10枚)中国も「秋の党大会」「習近平国家主席の3期目」など、政治の話題に事欠かない。しかし国内は、厳しいゼロコロナ政策への批判などはある一方、それが大きなうねりにはならず、至って平穏な日常である。
それはなぜか。ひとつの理由として挙げられるのは、国民が政治に直接参画する機会がないからだろう。選挙で定期的に国民の審判を受ける日本とは、国の仕組みが決定的に違う。「指導部の決定が全て」という世界に不満を感じないのか、中国人に何度か聞いたことがある。多少の違いはあるが「指導部を責めようとは思わない。自分でどうにかしようと思う」という答えが多かった。
わからないでもない。理屈や自分の意見を述べたところで、決定が覆ることはほとんどないからだ。決められた制度やルールの中で自分がどう対応するかを考える方が、中国では合理的だ。というかそれしかない。良識ある中国人はそれを知っているし、生まれたときからそうであれば疑問すら感じないかもしれない。
頼れるのは自分と近しい人だけ
さぞかし窮屈かと思いきや、政治に参画できないことに納得してしまえば楽なのかもしれない。少なくとも政府への賛否を表明したり、投票先を迷うことはない。北京では今も、2~3日に一度はPCR検査を受けることが義務づけられているが、市民は粛々とそれに従っている。
ある外務省の幹部は、「中国人はアナーキー(無政府・無秩序)な人たちだ」と分析していた。政府を信用せず、頼れるのは自分と近しい人だけ、ということだろう。
確かに、政府が気に食わなくても、個人情報が管理されているのでデモなどの意思表示は規制される。ネットで文句を言っても、過激な政府批判は取り締まりの対象だ。仮に反政府デモが広がったところで、共産党に代わる政権政党はない。逆に考えれば、政府批判、共産党批判というタブーさえ侵さなければ、ある程度の自由は担保される。
さらなる自由を求めて、この巨大な警察国家にチャレンジするか、個人の平和な暮らしを守るか。中国にいると、前者を選択することにいかに勇気が要るかがわかる。
そんな中国社会を受け入れ、楽しむには「良い・悪い」でも「好き・嫌い」でもなく「割り切り」が必要なのだと感じる。日本ほどの自由はないが、気遣いや忖度が少ない分、人間関係ははるかにシンプルだ。日本人としての矜持や分別、価値観はこれとは別に持っておけばいい。「こんな社会もあるんだ」という感覚で中国を見ると、人々が案外楽しそうに見えてくるから不思議だ。
【執筆:FNN北京支局長 山崎文博】