戦後77年を迎え、当時を知る人が少なくなる中、戦争を語り継ぐことが大きな課題となっている。
鹿児島市出身の汐見夏衛(なつえ)さんが書いた小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」は、終戦間際の鹿児島で行われた“特攻”をテーマにしたものだ。SNSをきっかけに、10代の若者に大きな反響を呼んでいる。

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戦争の記憶をつなぐために今、求められていることを考える。

SNSで10代の若者に反響 累計26万部突破のベストセラーに

汐見夏衛さん:
祖父母が戦争の記憶がある世代なので。でも私がそれをリアルな話として聞けた、最後の世代。
ここから後ろの世代につなぐために、どういう話をすればいいか考えたときに、小説という形だったら恋愛とか、今の若い子が興味があるような話題と一緒に伝えることができれば、戦争についてあらためて考えるきっかけになる

2016年に出版されたこの小説は、SNSをきっかけにベストセラーに。累計発行部数は、26万部を突破した。

中学2年生の孤独な少女・百合が目を覚ましたのは、戦時中の日本。出会い、その優しさに惹かれたのは、死を覚悟した特攻隊員だった。

百合、会いたい。ついさっきまで会っていたのに、もう会いたい。なんとしてでもこの戦争を生き抜いてくれ。さようなら

出撃する特攻隊員が、主人公の百合に向けた最後の手紙。死を覚悟し、愛する人に向けたまっすぐな言葉が、多くの若者の心に刺さった。

1036人が戦死…大切な人にあてられた無数の言葉

終戦の年の1945年3月に始まった“特攻作戦”。

重さ250kgの爆弾を飛行機につけ、敵の船に体当たりした。
沖縄特攻作戦で戦死したのは1,036人、その半数近い439人が今の鹿児島・南九州市にあった知覧飛行場から出撃した。年齢は17歳から32歳だった。

特攻隊員の遺書には「会いたい。話したい」、「いつまでもお前を護る」と、大切な人にあてた無数の言葉が残されている。

当時を知る人に会いに、福岡県に向かった。

100人いたなでしこ隊も…当時語れるのは2人に

鹿児島・知覧出身の三宅トミさん、92歳。手に持っているのは当時、飛び立つ特攻隊員に手渡していたという人形だ。

三宅トミさん:
(特攻隊員とは)お兄さんと妹みたいな、そんな感じでした。あす出撃される方が紙に書いて下さった。“君と別れていつまた会える 梅か桜の咲く頃か靖国でか”って。それを手渡されて、明くる朝、出撃されて帰ってこられなかったです

トミさんは、特攻隊員の食事や洗濯など身の回りの世話をする知覧高等女学校、通称「なでしこ隊」の一員だった。

Q.何人ぐらいの特攻隊員の方を見送った?
三宅トミさん:

何人ぐらいだったですかね…。もう数は覚えてません。多いときは20人ぐらい整列されて、皆自分の飛行機に分かれて行かれましたから。涙はここでは見せられなかったですね。私は家に帰ってから号泣しました

そんなトミさんの願いとは―。

三宅トミさん:
孫たち、ひ孫たちに、こんな私たちみたいな思いはさせたくないですね。もう絶対にさせたくないですよ。私たち一代でいい。もう十分です。あんな時代は

“特攻”が美化、今の感覚に違和感も…戦争知らない世代に語り生きたい

あの時、トミさん達が特攻隊員を見送った場所は、今では辺り一面畑が広がっている。

戦後77年、約100人いたなでしこ隊も、ほとんどがこの世を去り、当時をはっきりと語れるのは、トミさんを含めて2人ほど。

戦争を知るトミさんは、“今”の感覚に違和感を覚えている。

三宅トミさん:
何か今は、特攻が美化されるようなあれになっとるでしょう。あれはちょっと…。あんな悲惨なことがあったのに、何か悔しいですね。みんなに戦争の怖さを知ってもらいたいばっかりで、自分たちの生きとる間はそれだけを語って生きたい

当時の記憶が刻一刻と失われる中、戦争の悲惨さをどう語り継ぐのか。

小説を書いた汐見さんが考えるのは、戦争を知らない世代の“主体性”だという。

汐見夏衛さん:
(小説は)なかなか身近に感じられないもののきっかけとして書いたもの。そこから読者さんが、自分から主体的に向き合うことで、次のあとの世代に伝えていくことができる

小説を読んだ若い世代からは、「これまで戦争の話は避けていたけど、小説をきっかけに特攻隊や戦争について調べるようになった」という感想が寄せられた。

伝える形は違っても、伝え続けなければいけないこと。

今を生きる私たちに求められているのは、戦争について“知ろうとする努力”と、それを“語り継ぐ覚悟”なのかもしれない。

(鹿児島テレビ)

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