佐賀県伊万里市にある大川小学校。夏休み真っ只中の子どもたちはこの日、全員揃って登校した。その理由は平和学習だ。

平和学習に参加した生徒
平和学習に参加した生徒
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教壇に1人の男性が立つ。

伊藤博文さん:
今日は、私のおじいさんが戦時中に家族に送った絵手紙、それを通して皆さんと一緒に平和について考えていきたいと思います

教壇に立つ伊藤博文さん
教壇に立つ伊藤博文さん

生徒が真剣な表情で見つめる先には、カラフルな絵手紙があった。

【絵手紙の文面】
毎日、大変、元気でやっております。こちらもずいぶん暑くなり、大陸特有の大夕立が、毎日襲ってきます

3日に1回ほどのペースで満州から 家族を思う手紙

差出人の伊藤半次さん
差出人の伊藤半次さん

太平洋戦争中の1942年、満州から家族に送られた手紙だ。差し出し人は福岡市出身の伊藤半次さん。

満州から家族に送られた手紙
満州から家族に送られた手紙

半次さんは戦地から遠く離れて暮らす家族に手紙を送り続け、その数は約400枚にものぼる。伊藤半次さんの孫の伊藤博文さん(53)。

提灯店を営んでいた腕を活かした、明るい色彩の絵
提灯店を営んでいた腕を活かした、明るい色彩の絵

伊藤博文さん:
この和服を着ている女性が、伊藤半次の妻である私の祖母ですね。で、この抱かれているのが、私の父が幼い頃の姿になります。自分の子どもも、きっと父親である自分に会いたいだろうと、その思いを書いているんだと思いますね。何かそれを思うと、すごく切ない内容ですよね

出征前は博多で提灯店を営んでいた半次さん。その腕を活かし、明るい色彩でかわいらしい絵が描かれている。

伊藤博文さん:
当時、家族を愛していたんだなっていうのが分かります。戦地にいながら、全く家族に心配させるようなことは書いてませんし、きっとその手紙を見た家族を励ましたり、笑っていて欲しかったりしたんじゃないかなって思います

1932年に日本の関東軍が中心となり、中国東北部に建国した傀儡国家「満州国」。1941年、半次さんは召集を受けて満州に出征。野戦重砲兵の部隊に配属され、旧ソ連との国境の警備に当たった。そんな中、手紙は3日に1回ほどのペースで満州から送られていた。

沖縄に配属され…祖父の最期を知りたい

しかし、半次さんが1944年から沖縄に渡って以降、家族のもとに届いた手紙は僅かに3通だった。その手紙には、優しいタッチの絵は描かれておらず、どれも既製の葉書に無事を知らせる内容が記されていた。

絵は描かれておらず、既製の葉書に無事を知らせる内容
絵は描かれておらず、既製の葉書に無事を知らせる内容

「待っていてちょうだい、サヨーナラ」

この葉書が最後の一枚だった。祖父が沖縄で一体、どんな状況で最期を遂げたのか。博文さんは家族として知りたいと思ったという。

実際に軍歴資料を取り寄せたり、沖縄に行ったり、いろんなことを調べ始めた。

半次さんが沖縄に配属された1944年。すでに10月には米軍の空襲を受け、那覇市街地は焼け野原になっていた。

調べを進めていくと、半次さんは野戦重砲兵第23連隊に所属していたことがわかった。

「この世の地獄を全て集めた」と形容される沖縄戦。中でも最も過酷だったとされる首里攻防戦で戦っていたことが判明した。

最も過酷だったとされる首里攻防戦で戦っていた
最も過酷だったとされる首里攻防戦で戦っていた

そして1945年6月18日、半次さんは沖縄本島南部で戦死したとみられている。

戦争の悲惨さを伝え、未来につなげる講演

何としても家族に会いたい…。

半次さんが最後の瞬間までそう願っていたことを感じた博文さんは、平和の尊さを語り継ごうと、これまで80回ほど講演を行ってきた。

この日は、長崎県への修学旅行を控えている小学6年生の前で平和学習を行い、実際に絵手紙を見てもらうことに。生徒たちは、博文さんにひとつひとつ意味を教わりながら、1枚1枚、時間をかけて読んでいく。

絵手紙を読み、戦争を知る
絵手紙を読み、戦争を知る

生徒:
戦争で書いたとは思えないくらい楽しそう

生徒:
イラストがあって色使いもよくて。見やすくわかりやすい

生徒:
家族に毎日いろんな気持ちを伝えるくらい、いろんな思い出とか、一緒にいたかったなという気持ちがあるんだなと思った

ウクライナの状況が重なる
ウクライナの状況が重なる

伊藤博文さん:
戦争となると、身近な人が離れ離れになって、結果的にもしかしたら二度と会えなくなってしまうかもしれない。そういうことも伝わったんじゃないかと思います。ウクライナの戦争も、一見すると遠く離れた世界のことのように思えるんですけど、実際には、この日本でもかつて80年もたたない前に同じようなことがあった訳ですから、他人事ではないなと思います

(テレビ西日本)