約1世紀近く前、アメリカから日本各地に届いた「青い目の人形」。当時、人形の歓迎会が盛大に行われた記録が残っている。
仲良く並んだ人形の上には日章旗と星条旗。青い目の人形は日米友好の証、シンボルだった。しかし、日米開戦を機に一転、数奇な運命をたどってゆく。今は長崎県内にわずか2体を残すだけとなった人形を通して、平和について考える。
この記事の画像(13枚)関係改善を願い贈られた人形 戦時下には多くが処分
長崎県島原市の第一小学校の校長室に置かれている「リトル・メリー」。95年前、アメリカから島原にやってきた人形だ。
2022年の夏休み前、有志でつくる「島原親善人形の会」は「リトル・メリー」を通した4年生向けの平和学習を行った。
島原親善人形の会・北田貴子事務局長:
小さいお人形ですけど、色んな歴史を語ってきた人形です。平和の大切さを皆と一緒に考えていけたら。なぜ青い目の人形、リトル・メリーがやってきたのでしょうか
人形交流を呼びかけたのは、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士だ。1920年ごろ、人種差別や経済的背景から反日感情(排日運動)が高まる中、ギューリック博士は、日本の子供たちに人形を贈って関係を改善しようと考えた。
日本では、新1万円札の顔でもある渋沢栄一が受け入れの窓口だった。アメリカの母親たちが取り組みに賛同し、集まった人形の数は1万2000を超えた。
手作りの洋服を身にまとった人形が、日本各地の小学校や幼稚園などに贈られ、今も平戸に残るエレン・Cをはじめ、県内には214の人形が届いた。1984年の映像には、当時の幼稚園で先生が子供たちに語りかける様子があった。
幼稚園の先生:
アメリカのオハイオ州からね、皆の国に「仲良くしてください」とエレン・Cちゃんやってきたの
一方、日本からはお礼として58の日本人形がアメリカに渡り、民間レベルでの交流が育まれた。
しかし、1941年に太平洋戦争が始まると、青い目の人形の多くは「敵国の人形」として処分された。
今残っているのは全国に約300体、長崎県内では平戸市と島原市の2体だけとなっている。
島原市立第一小学校の「リトル・メリー」は1984年、ひな人形の箱の中に隠された状態で約40年ぶりに発見された。アメリカの人形と分からないように、ひな人形と一緒に入れられていたのだ。
「相手を理解する心を」人形が伝える平和の大切さ
戦禍を逃れた「リトル・メリー」は島原市から特別住民票を贈られ、市の有形文化財に指定された。
2003年に発足した島原親善人形の会は、身近な国際交流や平和の大切さを伝えようと、答礼人形としてアメリカに渡った「長崎瓊子の里帰り展」のほか、講演活動を続けてきた。
島原親善人形の会・北田貴子事務局長:
メリーちゃんの歴史を伝えていく連携も、この20年でとれるようになったので、私たちなりに皆で地域の歴史として伝えていく。皆に親しみをもってもらうのが一番自然に語り継がれていく形なのではないかなと
第一小学校には、2005年にギューリック博士の孫から新たな人形・ジョアンナが贈られ、世代を超えた交流が続いている。
島原親善人形の会・北田貴子事務局長:
世界でも色んな戦争が始まっています。そんな中で私たちができることって何でしょうか。お互いの国や人を知ること、それが世界の平和につながっているのではないか。ギューリックさんや渋沢栄一さんは、この人形たちにそんな思いを込められていました
児童:
戦争の時代からリトル・メリーちゃんがいるとは知りませんでした。これからも仲良くしたいです
児童:
リトル・メリーちゃんは、みんなに子供のうちから仲良くして、戦争とかもないような世界にしてほしいと思っていると思う。友達と仲良く、そして友達に優しくしていきたいと思います
島原親善人形の会・北田貴子事務局長:
違いを、互いの国の文化や歴史、個性を知ろうとする心。そういった理解の心が平和につながっていると、メリーちゃんが私たちに考えさせてくれますし、私たちがメリーちゃんの語り部となることで、次世代の子供たちに伝えることができる
また、北田さんは「ウクライナへの軍事侵攻など、時代によって国際情勢は変わる。だからこそ、いつの時代も平和な世界は身近なところから作ることができると、地元の歴史、人形を通して子供たちに伝え続けていきたい」と話す。
世界の平和は子供から…。歴史に翻弄されながらも、人形に託された願いは国や時代を超えて私たちに問いかけている。
(テレビ長崎)