太平洋戦争の終戦から2022年で77年。戦前、長崎県の小さな村で1人の医師が活動写真を撮影していた。

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日の丸を掲げ、万歳をする大勢の人たち。そして、心なしか不安な表情を浮かべる青年たち。彼らは、これから戦争の地へと向かう出征兵士だ。

テレビ長崎では2008年に、これらの貴重な歴史の記録と証言を取材し、番組化している。小さな“村の記憶“を通して、改めてあの戦争を見つめ直した。

村の医師が記録した7年間…貴重な18巻のフィルム

長崎県の南部に位置し、約4000人が暮らす南島原市北有馬町。ここには、かつての村の様子を映した貴重なフィルムが残されている。

1938年から44年までの7年間を記録した16mmフィルムだ。
18巻のフィルムには、村人たちが田んぼを耕したり、お祭りでみこしを担いだりする活気あふれた様子が映されている。

撮影したのは村の医師、原口徳寿さん。

今は亡き原口医師は、村の記録を将来に残そうと、診察の傍ら、行事や村人たちの暮らしぶりをカメラに収めた。
そのカメラは、73歳で亡くなる日まで過ごした原口さんの自宅に大切に保管されている。

原口医師の長女・原口勤子さん:
行事があれば、何もかもさておいて、その間は休診なんです。よく患者さんも我慢してくださっていた

カメラは、原口医師が大金をつぎ込んで購入した当時最新型の「国産機アロー」。
原口医師は、カメラを手に入れる以前は撮影の経験はほとんどなかった。専門書をひもといて、その日の天候や露出の数値を細かく記録するなど、いちから研究を重ねた。

また、活動写真は音がないためレコードをかけていたが、その一枚一枚にタイトルが記され、シーンごとに流す音楽が決められていた。それらの映像は村での上映会で紹介され、テレビのない時代の唯一の娯楽として人々を楽しませていた。

村を記録しようと始めた撮影だったが、太平洋戦争が始まると、映像は次第に戦争の色に染まっていった。
国防婦人会の防空演習、運動会のリレーのバトンは銃に変わっていった。

そして戦火が広がるにつれて、カメラでの撮影は難しくなっていった。

原口医師の長女・原口勤子さん:
一般の家庭にはフィルムなど手に入らなくなって、しばらくは(フィルムの会社に)代金のほかに、お米とか小豆とか送って手に入れてました

紙も不足したため、取材メモには診断書の裏が使われた。
原口医師は、撮影が困難になりながらも「生きて帰れないかもしれない青年たちの姿を、家族に残してあげたい」「戦争に巻き込まれた村の姿を残したい」その一心でカメラを回し続けた。

志願兵が語る当時の北有馬

地元に住む城谷英保さんも、激動の時代を生きてきた1人だ。北有馬駅で当時の様子を話してくれた。

城谷英保さん:
ここから送ったもんですよ、みんな。向こうのホームに並んで、お礼の言葉を。「ただいまより行って参ります」と言って列車に乗って、旗を振ってみんな見送ったわけです。喜んで送る人もいれば、陰で泣く人もおったし、当時、いくら国のためとは申しましても、それはあったと思います

その数年後、城谷さん自身も見送られる立場としてこの駅に立った。18歳の時、自ら志願兵となり、戦地に赴いた。

城谷英保さん:
私たちもどうせ死ぬなら一緒だ、早く行っても一緒だろう、生きては帰られんだろうということは覚悟の上で入隊したもんです

死を覚悟して向かった戦地で見たものは、病死する者や傷を治す薬もなく、苦しみ死んでいく仲間たちの姿だった。

城谷英保さん:
船の中で同年兵が死んでいくのを見れば、もう、それは何をするのもひどかったですよ。もうあってはならないことと思います。戦争は嫌だと、若い人には言いたい

昭和6年の満州事変を経て、満州国を建国した日本は、国策として大規模な農業移民を実施。全国各地からの入植者の数は、約30万人にも上った。
長崎県からも約400人が海を渡ったが、原口医師は現地に赴き、開拓民の生活の様子を記録するとともに、健康診断も行っている。

原口医師の長女・原口勤子さん:
もう戦争もかなりひどくなってたんですよ。ですから最初、母は反対したようでしたけど、国のために尽くすという父の固い気持ちがあったもんですから、それに母も承諾して、それで出掛けたと思うんですが、その時、髪を丸坊主にしてですね、もし満州で自分が土と化すような事があったら、この髪を墓に収めてくれるようにと、遺骨の代わりにと置いていったと、母から聞いた時は、もう固い決心で行ったんだなあと思ってました

タイムスリップしたよう... フィルム上映会

2008年、原口医師が残したフィルムの上映会が町内のお寺で開かれた。
上映会を開くにあたって、傷みが激しかったフィルムはハイビジョン化された。この日は、近くの人たちなど約80人が集まった。
スクリーンに鮮明な画像が映し出されると、しばしタイムスリップしたように、在りし日の知人の姿や、町の様子に目を潤ませていた。

映像を見た女性:
いとこが志願して19歳の時に戦死しましたけど、久しぶりに見せてもらいました。原口先生のおかげで、ようございました

映像を見た男性:
当時としては画期的ですよ。田舎でこれだけのものを残すというのは。大した先生ですよ

原口医師の長女・原口勤子さん:
皆さんに喜んでもらって、父の思いもかなったではないかと思います。いま思うんですけど、いつも相手のことを考えるっていうか、そんな風な姿を私たちに残してくれたんじゃないかと思いますよ、自分の事じゃなくてですね。それは今、この年になってからわかります。本当に父の子でよかったなと

原口医師は戦後、58歳で撮影を止めた。重い機材に、弱り始めた体がついていかなくなったのだ。そして、73歳でその生涯を閉じた。

満州事変から始まった15年に及ぶ戦争に、北有馬村から出征していった者、700人余り。そのうち半数の約360人が戦死した。満州に渡った長崎県からの開拓民も、逃避行や収容所生活で約3分の2が亡くなったという。

時代を見つめる者として、戦争のただ中にあった日本を撮影し、後世に残した原口医師。今も残る貴重な記録には、時代に翻弄(ほんろう)されながらも懸命に、そして明るく生きる人たちの姿が刻まれていた。

原口医師を描いた「村の記憶~むかし医師ありけり~」は、テレビ長崎で8月22日(月)~26日(金)の週に再放送予定のアーカイブ名作集の一つとして、県内で地上波OAされる。

(テレビ長崎)

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