「侍医長出ました!」

自宅を出る高木侍医長
自宅を出る高木侍医長
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今からちょうど30年前のことだ。
昭和64年(1989年)、1月7日の早朝5時、「ジリリーン」と宮内庁クラブの電話が鳴った。代々木にある高木侍医長宅前で張り番をしていた記者からで、「待医長出ました!」と叫んでいる。

この時間の登庁は、ついにその時が来た、ということだ。

当時の宮内庁クラブは、昭和天皇のご病気対応で、加盟全社の記者が泊まり込んでいた。フジテレビは朝日、産経、共同と同じブースで、それぞれ机の前に簡易ベッドを置いて寝ていた。僕はその日の当番だった。

他社にバレないよう、記者クラブの外にある公衆電話から、本社デスクに電話しようかとも思ったが、僕も、他社の記者も、そんなことをするにはもうクタクタに疲れていた。いいや、このまま電話しよう。

それでもデスクには「侍医長出ました」と小声で伝えたのだが、その瞬間、他の3人がガバっと起き上がり、一斉に「侍医長出た!」「侍医長出た!」と電話し始め、それが宮内庁クラブ中に広がった。ウチの電話が鳴った時点で実はみな起きていたようだ。

こうして「昭和」は最期を迎えた。
 

医療担当記者として

そもそも当時の僕の担当は同じ社会部でも、宮内庁ではなく、厚生省だった。本来厚生省担当というのは、社会保障全体を見るのだが、当時はエイズや脳死など、ニュースに医療の割合が多く、社内で僕は医療担当という位置づけだった。

医療担当になったのはきっかけがあった。その4年前、田中角栄元首相が脳梗塞で倒れた。僕は夕方のニュースのディレクターだった。当時の医師団の最初の発表は、「田中元首相の病名はRIND(リンド)です」というものだった。

田中角栄元内閣総理大臣
田中角栄元内閣総理大臣

リンド?
脳梗塞ではないのか?
医師団によるとリンドとは虚血性可逆性神経障害の略語であるという。脳梗塞のようなものだが可逆性である、元に戻る、治るものなのだと。だから脳梗塞ではない、政界にも復帰できる、そういう説明であった。

そういうものなのかと思っていたら、知り合いの医師から電話がかかってきた。
「RINDという病名はおかしいよ。嘘だ。」と言う。

彼曰く、「脳の中は見えないから、どうなっているかは実はよくわからない。だから可逆性かどうかは実際に元に戻って初めてわかる。現時点で、可逆性なので脳梗塞でなく、政界復帰できるというのは、医師として誠実ではない」ということだった。

これは大ニュースではないか。
医師団は脳梗塞でない、政界復帰できる、と言い張っているのに、別の医者はそうではないと反論しているのだ。

O編集長に言うと、「それはすごい。その医師を呼んできてテレビに出演してもらえないか」と言う。「その人は事情があって出られないので代わりの人を探します」と答えて、ようやく有名な医者を見つけ、そのことを言わせて、放送した。

すごい反響だった。

ドクターXの存在

陛下に輸血する血液パックを運ぶ関係者
陛下に輸血する血液パックを運ぶ関係者

それ以来「病気の話は平井に聞け」ということになった。

そして崩御の1年4か月前の昭和62年9月、体調を崩していた昭和天皇は開腹手術を受けられた。宮内庁の発表による病名は「慢性すい炎」だった。公務にも復帰できるということだった。

 デスクから電話があった。
「一部にガン報道もあるが、本当に慢性すい炎なのか。陛下はあとどのくらい公務を続けられるのか」。
それを調べるのが僕のミッションだという。

例のリンドの医師に電話をした。彼は今回も明快だった。

「出血が多いみたいだからすい炎というのはたぶんウソだろう。すい臓か、またはどこか消化器のガンだろう。しかし陛下の今の年齢だったら、すい臓ガンも慢性すい炎も同じことだ。治療法も、余命も変わらないのでそこにこだわる必要はない。」ということだった。
「(一般的な話だが)余命は、普通は数か月、または1年以上になることもある」ということだった。
 

昭和天皇のお見舞いの記帳のために並ぶ人々
昭和天皇のお見舞いの記帳のために並ぶ人々

彼の説明をメモにしてデスクに送ったら、O編集長から電話があった。
「あのメモは、角栄のリンドの医者か?」と言うので、「そうです」と答えたら、「その医者は飛び切り優秀だからウチで丸抱えできないだろうか。ホテルに住んでもらってテレビで解説してもらえないか」という。

彼は西日本の病院勤務なので無理だと断ったのだが、その後、崩御までの1年4か月、彼にはアドバイザーとして電話で解説をもらうことになった。

我々は彼を「ドクターX」と呼ぶことにした。

「その日」を見極める難しさ

皇居に入る血液運搬車
皇居に入る血液運搬車

1年がたった。
その間、僕は宮内庁担当に替わり、天皇に執刀した医師達を取材するなどして「その日」に備えた。
そして63年9月、昭和天皇は大量の吐血をし、再び手術を受けられた。
病状は芳しくなかった。

ドクターXに電話すると「もう時間の問題だろう」という。「その状態から推察すれば普通は1か月位だが、延命治療をすれば3か月くらいか。年を越せるかどうか・・・。」ということだった。

テレビと新聞の大きな違いは、こちらの方がやたら「図体」がでかいことである。中継車やカメラなどで場所をとる。新聞は一人で写真を撮って、原稿を送れば済むので身軽なものだ。

天皇崩御に向けてテレビ局は、とてつもない準備をしなければならない。例えば宮内庁で行われる崩御の会見は生中継しなければいけない。絶対に失敗は許されない。他にも崩御からしばらくは他の番組は流せないとか、CMは外すとか、準備しなければいけないことは山ほどある。

だからドクターXの解説は、「その日」を知るために、我々にとって死活的な情報だった。

「陛下 重体」の号外を読む人々
「陛下 重体」の号外を読む人々

フジテレビでは毎日、夕方のニュースが終わった午後7時から編集会議を開き、明日の予定などを報告し合う。普通は報道以外にせいぜいワイドショーの人が来るくらいなのだが、その日から、編成、営業、総務、ネットワーク、技術など、社内のあらゆる部署の人が来るようになった。

平井記者の取材メモ
平井記者の取材メモ

会議の冒頭、まず僕の取材メモが読み上げられる。宮内庁が発表する昭和天皇のご容態、体温や血圧、下血があったかなど、それにドクターXの解説を加えたメモだ。そのうち、皆が我先にと僕の取材メモのコピーを奪い合う、そんな日々が4か月続いた。

「昭和」が終わった

こうして昭和63年は暮れていった。

自粛ムードのせいか、あるいは僕が慢性的な睡眠不足だったせいか、なんだかどんよりとした気分の年の暮れだった。崩御の際は皇居前で自殺者が多数出る、との情報もあった。街は暗く沈んでいた。

最後の数日は、明らかな危篤状態で、「あとは、どこで延命をやめるかだ」とドクターXも言っていた。

「昭和天皇崩御」の号外
「昭和天皇崩御」の号外

そしてその日がきた。
午前6時33分。
天皇陛下 崩御。

宮内庁前から中継する平井記者
宮内庁前から中継する平井記者

陛下に失礼なのでコートは着ないで中継しろという上司の指示で、寒い宮内庁前から震えながら中継放送したことを記憶している。

新元号「平成」を発表する小渕官房長官(当時)
新元号「平成」を発表する小渕官房長官(当時)

午後2時過ぎ、小渕官房長官が「新元号は平成」と会見した。

こうして昭和は終わった。
天皇の病名は「十二指腸ガン」だったことを宮内庁が明らかにした。
ドクターXの言ったことはほぼ当たっていた。

平成に入り、世界は、日本は大きく変わった。まず冷戦が終わり、世界の秩序が新しくなったが、地域紛争はむしろ増えて安全保障の緊張感は高まった。日本ではバブルが弾け、長いデフレに入っていく。

昭和34年生まれの私にとっての昭和は、高度経済成長の右肩上がりで、ひたすら勢いのある時代だったが、その後の平成は、成熟よりもむしろ沈滞の気分の方が強かった気がする。

ドクターXも逝った

そして平成も終わりに近づいた28年1月13日、ドクターXが亡くなった。昭和天皇崩御の日と同じように寒い日で、翌日、雪になった。

病名は奇しくも昭和天皇と同じ十二指腸ガンだった。そういえば嘔吐や出血など症状が天皇と似ていた。吐血と下血で入院して、すぐに十二指腸ガンと判明。積極的治療はせず、1か月後に亡くなった。

ドクターXは私の父だった。

執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫

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平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。