戦後、アメリカ統治下に置かれた沖縄で「祖国復帰」「平和憲法の下へ帰る」というスローガンのもと展開された復帰運動。この運動をけん引した一人に、初代県知事となった屋良朝苗がいる。沖縄の本土復帰を「茨の道」と例えた屋良朝苗と復帰運動の歩みを振り返る。
元秘書が語る 復帰運動の始まり
屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
復帰の父と言われた屋良朝苗だけど、「県民が願った復帰にならなかった」という悔恨は何度も聞かされた
元沖縄教職員組合の委員長で、後に初代県知事となった屋良朝苗の秘書を務めた石川元平さん。
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屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
異民族支配から脱却して、平和憲法体制のもとに帰りたい…。民族主義的な色彩を色濃く帯びた運動の始まりですね
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不条理に晒され、日増しに強くなる復帰への思い
1952年、サンフランシスコ講和条約により日本から切り離された沖縄。アメリカ統治下に置かれ、沖縄の人々は様々な不条理に晒されてきた。
アメリカ軍による度重なる事件・事故や強権的な施政運営に、県内各地で本土復帰を望む声が日増しに強くなっていった。その運動の中心となったのが当時、教員によって組織された教職員会で会長を務めた屋良朝苗だ。
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屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
1953年に復帰期成会というの作って、屋良さんが会長になって。ところがアメリカの弾圧が厳しすぎて、CIC(対敵諜報部隊)が自由に立ち入り出来たんです。止められない。これが施政権の力ですよ
軍の執拗な介入に復帰期成会は消滅に追い込まれるが、民衆のうねりは収まらず、1960年に新たな枠組みである「沖縄祖国復帰協議会」が発足した。
屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
アメリカから弾圧が掛かれば掛かるほど、内部は結束を固めたんですよね
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発足から5年後、佐藤栄作首相(当時)が来沖し、沖縄の返還に目途が立ったころ。沖縄ではベトナム戦争による軍事拠点化が色濃くなっていった。
屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
(運動の中で)次第に日の丸が消えていって。即時無条件全面返還に反戦復帰、完全復帰といった言い方をされてきたんですね
運動の方針が「反戦」「基地の全面返還」と変わっていく中、政府は「核抜き・本土並み」を掲げ復帰した後も、基地の継続使用を認める方針を示していた。沖縄と政府との間で復帰の考えに対する溝が深まる中、運動の中心にいた屋良は大きな局面を迎える。
2万人の民衆が警察と衝突 教公二法阻止闘争
政治行為を禁じた教育公務員法と同特例法は、運動の中核を担っていた教職員会の活動を弾圧するものとして、廃案に向けた大規模な運動が展開された。
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屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
教職委員会が中心になっている復帰運動、これは政治活動と見なすという
当時、立法院の与党にあたる「民主党」は法案を強行的に採決する動きを見せ、廃案を求める復帰協の運動も激しさを増していた。
1967年2月24日、教公二法の採決予定日。立法院を約2万人の民衆が取り囲み、警備にあたっていた警察と衝突。民衆が警察をゴボウ抜きにして立法院に流れ込み、本会議は中止に追い込まれ、その後、教公二法は廃案となった。
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屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
教職員を始めとする労働者、県民、大衆の力でこれを食い止めた。72年復帰の原動力となった教公二法闘争、そういう位置づけ
復帰の大きなうねりとなった教公二法闘争の翌年、沖縄では初めて民衆が主席を選ぶ主席公選が実施され、屋良が当選を果たした。屋良はこの時の事を「運命の気がする」と綴り、本土復帰に向けて民衆の先頭に立つことになる。
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しかし復帰の前年、日米で交わされた返還協定には基地の継続使用が明記され、沖縄が求めた全面返還は叶わなかった。
元沖縄県知事 屋良朝苗さん: 返還協定の実況を見る涙がにじんだ。運命とはいえ、ここにまた問題を背負い進んで、またまた茨の道、針の山は続く
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「県民の気持ちは踏みにじられる」幻となった建議書
屋良は沖縄の思いを政府に届けるべく、7つの基本的要求と6つの具体的要求から成る「復帰措置に関する建議書」を携え上京したが、国会では返還協定の承認が強行採決された。
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屋良が空港に到着した数分前のことだった。
元沖縄県知事 屋良朝苗さん: 沖縄県民の気持ちというのは全く弊履(破れたぞうり)のように踏みにじられるものだ
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屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
屋良先生は「叶わなかった復帰の中身を勝ち取るのは、君たちの大切な責務だ」と遺言のように話されて
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1975年、復帰協は運動の経過をまとめた総括で「追求してきた課題が何ら解決されていない」としながらも新たな運動に繋げられず、その2年後に解散した。
屋良朝苗の元秘書 石川元平さん:
復帰して悪かったという事ではない。復帰してよかったという(意見が)上がっていくのだけれども、色々、問題を指摘される。やっぱり悔恨の思いは非常に強かったですよ
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50年前と変わらず、広大に横たわるアメリカ軍基地。今も様々な不条理に晒されている沖縄の現状を見つめ、私たちはこれから沖縄が辿る道を決めていかなくてはいけない。
(沖縄テレビ)