いよいよ一触即発の状態を迎えているロシアのウクライナ侵攻。2014年のクリミア侵攻時は、戦闘地帯は遠い東方であり、首都キエフは軍事的脅威とは無関係であったが、今回、米国は在キエフ大使館員家族などの避難命令を発令した。つまり、首都が戦場となりかねないことを意味し、欧州では第2次世界大戦以降類を見ない規模の地上戦が行われる可能性を示唆している。
ロシアの栄光を取り戻す最大のチャンス
ロシア側から見れば、今のこのタイミングは、ソ連崩壊後、軍事作戦を引き起こす最大かつ絶好のチャンスである。そして、ウラジーミル・プーチン大統領にとっても、自らが「20世紀最大の地政学的大惨事」と語るソビエト連邦崩壊の汚名を返上し、ロシアの栄光を取り戻す、最大で且つ最後のチャンスかも知れない。
2000年に第2代ロシア大統領に就任して以来、「強いロシアの再建」を掲げ、欧米がリードする世界秩序に挑戦し続けた。国家を再興し、世界の一極を担う存在に返り咲くためには、ソビエト連邦に勝るとも劣らぬ勢力圏を再構築せねばならない。
2001年に中国と中ロ善隣友好協力条約を締結、同年に米国一極支配やNATOに対抗するロシア、中国、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン6カ国の国家連合である上海協力機構(SCO)を設立する。
2008年には親米路線に転じたジョージアに侵攻して親ロシア派地域を援護し、2014年にはウクライナのクリミア半島に侵攻し併合、NATOの東方拡大を抑え攻勢に転じ、2015年、ベラルーシや中央アジア諸国とユーラシア経済同盟を発足させて勢力圏の安定に邁進し、着実に勢力圏の維持拡大に努めた。
この記事の画像(18枚)NATOによる東方拡大の動き
しかしながらこの間も、米国を中心としたNATOの東方拡大の動きは旧ソ連の勢力圏を侵食する。2004年には、ソビエト連邦構成国であったエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国がNATOに加盟し、外側の旧ソ連を取り巻く国々も、2004年にブルガリアとルーマニアが、2009年にアルバニアとクロアチアが、2017年にモンテネグロが、2020年に北マケドニアがNATO加盟を果たして包囲網を形成、いよいよ次は旧ソ連構成国で2番目の人口を保有し、ロシアの安全保障上の要衝でありかつ壁となるべきウクライナである。
「ウクライナ民主化」の阻止
一方で、今回の危機を招いた表面上の動きは、あくまでもウクライナのNATO加盟への動きであるが、その本質は、ウクライナの「民主化の阻止」である。プーチンが大統領となって後の20年余りのロシアの歴史は、勢力圏内に於ける民主化運動との闘い、と言っても過言ではない。
03年にはジョージアでシェワルナゼ政権が倒れた「バラ革命」が、04年にはウクライナの親欧米派による「オレンジ革命」が、そして2011年からは「反プーチン運動」が、最近では20年8月のベラルーシでの抗議デモなど、小規模なものまで数えれば切りがない。民主化運動と戦い続けて来たプーチンにとって、ウクライナのNATO加盟という安全保障上の脅威よりも、「ウクライナの民主化」という動きの方が、極めて大きな脅威なのである。
プーチンは、「ロシア人とウクライナ人は一つの人民であり一体である」と言っている。ウクライナこそ、ロシア正教を守り、スラブ系社会を維持し、ロシアの国際的地位の確立には不可欠と信じている、そのウクライナが欧米化を志向し、民主主義化していくことは、プーチン勢力圏内の民主化勢力を励まし、反プーチン勢力を鼓舞し、ロシアの専制体制転換への動機付けにもなりかねない。
プーチンにとっては、ウクライナのNATO加盟を阻止してNATOの東方拡大を阻止することは安全保障上勿論重要だが、それ以上に、「ウクライナの民主化を阻止すること」が、自分の強権体制を正当化し、強いロシアを守り、世界の一極を担うには必要不可欠なのだ。
そのプーチン大統領に、千載一遇の武力行使の機会を与えているのが、アメリカのジョー・バイデン大統領である。
バイデン大統領のリーダーシップ欠如が招いた危機
バイデン政権は国内も海外も多大なる問題を抱えているが、問題の構造は全く同一で、起因する要因はたった一つ、バイデン大統領のリーダーシップの欠如である。
2021年1月の大統領就任式で、「アメリカを一つにし、国民を団結させ、この国を結束させることに全霊を注ぐ」と言いながら、国内の分断は益々拡大し(寧ろバイデン自ら分断を助長する発言のなんと多いことか)複雑化する一方で、国際問題では、「同盟国との関係を修復し、世界に再び関与する」と述べてトランプ前大統領の米国第一主義から国際協調主義に転換するとの考えを示したものの、少なくとも欧州諸国との関係修復が為されているとはとても言い難い状況にある。
国内外ともに、「皆の心を一つに束ね、同じゴールに向かって走らせる」ことが出来ない、「バイデン大統領のリーダーシップの大いなる欠如」が、本質的な唯一の要因である。
この欠点がウクライナ危機でも露呈されており、迅速に米国としての対抗手段を決断出来ず、かつ西側諸国を結束させられない事態を招き、その結果プーチン大統領を全く抑えられない現状を招いているのだ。
最大の問題は米国内を纏められずに、米国の戦略としてのベストの選択肢を迅速に決断できないことだ。共和党との分断は勿論のこと、民主党内部においても、急進左派と言われる新勢力の台頭を全くコントロール出来ていない。
この危機に関して言えば、急進左派の一部を中心とした抑制主義者と呼ばれる人々は、米国が同盟国や友好国の安全保障に積極的に関与することに反対している。米国民の命(派遣される米軍)を危険に晒し、膨大なコストを掛けて友好国を保護するよりも、関与から手を引くことによって自国防衛に責任を持たせるべきである、と主張する勢力に配慮せざるを得ない結果、今回アメリカは、実質的にロシアの軍事行動を抑制する唯一の手段であった「米軍の周辺国家への派遣」を最後のタイミングまで決定することが出来ず、プーチン大統領が全く意に介さない経済制裁のみを一つ覚えの如く振りかざし、プーチンに時間を稼がせると共に、国際的な失望を広げる大きな要因となった。
米国内の支持基盤が脆く、各勢力の主義主張に振り回され、もたついてベストの決断が出来ない、或いは遅れる、という現在のバイデン政権の状況は、即時の果断な決断が必至の有事の際にはここまで醜い姿を晒すことを、我々は良く覚えておく必要がある。
次に国際関係だが、バイデン政権が掲げる外交政策の3つ最優先課題である、民主主義の支持、気候変動への対応、中国とのバランス構築(対中包囲網の構築)は、確かに全てが最重要であり、机上の理論上は何ら反論の余地はないものの、実行フェーズに於いてはそれぞれが矛盾して衝突するため、一貫性の無さを印象付けている。その結果、多国間を一つに束ね、民主主義という旗の下に一極勢力を作ることが出来ない。
アフガニスタン撤退時の大失敗
関連事象で例を挙げれば、最優先事項の一つである「中国とのバランス構築」を追求するために、限りある戦力の中でアフガニスタンやシリアから米軍を撤収させ、インド太平洋(対中国)に戦力を集中させる戦略自体は正しい様に見えるものの、米軍が撤退した地域の平和は破壊され、大量の難民がまた欧州に押し寄せるリスクを発生させる。
人道主義は民主主義の根幹だが、難民を作り出すことは人道主義と矛盾し、民主主義の支持という別の最重要課題を自ら崩壊させるのみならず、難民受入れに頭を悩ませる同盟国の利益を棄損する。民主主義の支持と中国とのバランス構築は、遂行フェーズでは矛盾する課題なのだ。
しかもあのアフガン撤退時の一人芝居的な大失敗の影響は計り知れない。アフガンへの派兵はNATOの作戦であり、NATOの集団的自衛権に基づく義務を履行するために同盟国は自国軍を派遣していたにも関わらず、米国の都合だけで撤退を決め、しかも作戦に於いて余りにも杜撰な方法論の結果、大惨事を招いたことは誰もが忘れていない。
ただでさえドイツやフランスとの関係修復が重要課題であったにも関わらず、あの失敗が彼等の不満を増幅させた中で、今回はロシアのウクライナ侵攻に備えてNATOで足並みを揃えて結束だ、と言われても、バイデン大統領の声に疑問や疑念を抱くのは自明である。
親ロシア路線を継続するドイツ
一方で、西側諸国の足並みが揃わないのは、米国のリーダーシップ欠如の他にも要因がある。EUの中心国であるドイツは、発言では米国を支援しているものの、行動はそうとは言い難く、寧ろロシアを支援していると言っても過言では無い状況である。
そもそも、ドイツで昨年末まで16年間首相を務めたアンゲラ・メルケル氏は、全方位外交を極めて得意とする政治家であり、西側諸国との良好関係を構築しつつ、ロシアや中国との経済的な結びつきを強化することでドイツの発展を導いてきた。その後継者である社会民主党(SPD)のオラフ・ショルツ首相は、SPDが親ロシアであり、かつメルケル氏の路線継続という意味では完全に親ロシア派と見る。
現実論として、ドイツのエネルギー政策はロシアからの天然ガス依存度を高める前提で成り立たざるを得ない状況にある。現在も同国内のロシア産ガスのシェアは50%を超える中で、2022年中に原発を全廃、2038年までに石炭火力発電を全廃という目標を掲げている中、米国からLNGガスを買う施設も頓挫し、消去法的にロシアの天然ガスのドイツ国内シェアは更に上昇することになる。
ここ数日でショルツ首相は、米国共和党が制裁を望んだ注目のノルドストリーム2の停止(実質は非使用)に言及した一方で、ロシアの顔色を伺うかの如くウクライナへの直接的な武器供与は拒否し、小国エストニアのウクライナへの武器供与要望についてもドイツ製の武器輸出(エストニアの武器の殆どはドイツ製)についての輸出許可を頑なに拒んでいる。
欧州からのアメリカ排除
この様な、歴史上稀にみる米国のリーダーシップ衰退と民主主義陣営のもたつきの中で(他にも中国との連携やエネルギー需要の急増など多くのプラス要因があるが)、プーチン大統領が、今が武力侵攻を起こす絶好の機会と思うのはある意味当然であり、これ以上ウクライナや他の民主化への動きを加速させる訳には行かない、まさに最後で最大のチャンスと言えるが、改めてプーチンの目的を整理したい。
大別すると、対民主主義陣営に於ける表面的な目的と、ロシア勢力圏内での真の目的がある。まず民主主義陣営に対しては、表向きで言われている通り、NATOの東方拡大の阻止を法的に保証させること、だが、ここまでの自信ある動きを見ていると、同時に、EUの分断や、EUと米国の分断、つまり「米国の欧州からの排除」を、一気呵成に狙う目算では無いかと見る。
実際に今回の動きの中で、ドイツ以外でも、フランスの中途半端な仲介役行動に見られるEUの問題を米国に翻弄されないという意図やロシア擁護の雰囲気と、バルト三国やポーランドなどのウクライナを断固支持したい勢力との温度差など、EUやNATOの分裂や解体までも視野に入れる欲望がプーチンに芽生えても何の不思議も無い程、西側諸国の足並みは乱れている。
目的は「親ロシア政権の樹立」
そしてもう一つであるロシア勢力圏内の目的は、冒頭に述べた通り「ウクライナの民主化阻止」であり、具体的には「親ロシア政権の樹立」だと筆者は見ている。
22日にはイギリス外務省が新首相候補の実名まで挙げて「ウクライナの政権転覆を狙うロシアの活動が明るみに出た」と機密情報を報道した。
実際にウクライナのゼレンスキー政権の支持率は極めて低く、筆者の情報筋でも、ロシアの諜報機関の工作によって議員の半分近くが親ロシア派で固められたと見ており、ロシア主導に於ける親ロシア政権樹立の可能性は今や高まっていると言って良い。親ロシア政権の樹立さえ出来れば、プーチンはウクライナをロシアに併合する必要などなく、カザフスタンやベラルーシと同様にウクライナ政府と同盟関係を築くことで勢力拡大と安定化が可能となる。
今後、プーチンには3つの選択肢がある。一つ目は、軍事侵攻をすると見せかけてこのまま脅し続け、実際は軍事行動を起こさずに西側諸国の譲歩を取り付ける、二つ目は、ウクライナの一地域、例えば東部ドンバス地方に小規模に侵攻し、一部を占拠して実効支配をする、三つ目は、大規模な地上戦を行い、ウクライナ全域を支配することである。
真の目的が親ロシア政権の樹立であるならば、その近道がどれかと言うことだが、この西側諸国の力の無さと乱れぶりからすると、一つ目の、脅しのみで西側の譲歩を取り付けかつ同時並行的に親ロシア政権を樹立することは十分に可能と見え、一方でこれを機に完全なる傀儡国家を作るために3つ目の選択肢である大規模な地上戦を行い、キエフ占領まで見据えても、米国の決断力の無さからすれば大した抵抗も無く最大の結果を得られる様にもプーチンには見えているであろう。
いずれにせよ明確なことは、圧倒的に優位なのはプーチンサイドであり、どの選択肢を選ぶかの権利は必要なカードを迅速に切る決断力の無かった米国には無く、全てをプーチン大統領が握っているということである。
影響は東アジアや日本にも及ぶ
米国が遅ればせながら、侵攻抑止の絶対必須条件で有った「米軍の派遣」を決定(厳密には警戒態勢指示)したことは朗報ではある。が、それが、プーチンが避けねばならない唯一の「米国はロシアとの直接戦争も辞さない」という脅し、つまり抑止力となるかどうかは今のところ懐疑的と分析せざるを得ず、決して予断を許す状況ではない。
このウクライナ危機の趨勢は、今後の民主主義対権威主義の世界バランスを左右し、台湾問題を抱える東アジア、つまり我が国も大きな影響を受けることは言うまでもない。米国の英知を結集させ、軍事衝突を回避しつつウクライナの民主主義を守る「民主主義陣営の勝利」を願いたい。
【執筆:欧米ビジネス政治経済研究所 林大吾】