パラアスリートたちの祭典・東京パラリンピックでは、競技だけでなく開会式の華麗なパフォーマンスも話題になった。
その開会式に出演したのが、静岡市出身の女性だ。17年前の交通事故で右腕を失い、人生のどん底を経験したが、今では前向きに生き抜くことの大切さを伝えている。

手術直前、母は右手に「20年間ありがとう」

静岡市葵区出身の伊藤真波さん。
現在は兵庫県を拠点に、全国各地で年間90回もの講演を行っている。

国内で初めての「義手の看護師」として病院で働いていたが、結婚を機に退職し、現在は2児の母だ。

伊藤さんは「あきらめない心」をテーマに年約90回の講演
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(講演前に客席の照明をチェック)
伊藤真波さん:
皆さんのお顔をしっかり見せてもらいたいんですよ。反応を見たくて。客席を少し明るくして頂くことは可能ですか

今から17年前、右腕を切断した伊藤さん。
看護学生だった当時、バイクで実習先の病院に向かう途中、大型トラックに巻き込まれる事故にあった。

看護学生だった20歳の頃、交通事故で右腕を失う

伊藤真波さん:
朝の事故にも関わらず、私がもう一度目を覚ました時には真夜中の集中治療室でした。そこに医師がやってきたんです。
医師は「あなたの腕は、ただ転んで骨折したわけではありません。トラックに巻き込まれ引きずられ、道路の砂やタイヤの油がたくさんついています。それを取り除かないと命を失うことになります。どんな治療も耐えられますか」と言いました

講演で右腕切断の経緯を語る伊藤さん

辛いリハビリに、進行する感染症。バイクに乗ることを反対し続けてきた母・小百合さんは、感情を押し殺し、娘の辛さを受け止めてくれたという。

そして、右腕を切断する当日…

伊藤真波さん:
手術の30分前、ずっと黙って隣にいた母が言ったんです。私の青白くなって冷たくなった右手の手のひらを握り、「20年間ありがとね、お疲れ様。あんたも言いなさいよ」って。そう言われたけど、言えるはずはなかった。
でもその時に決めたんです。何年、何十年かかってもいい。誰よりも幸せな人生を送ってみせる、両親のために笑った人生を送ってやる。
そして手術室に呼ばれ、手術を受けました。扉が閉まった瞬間、母は泣き崩れたそうです

切断の日、母・小百合さんは腕に「20年間ありがとね」

傷跡をさらけだして強くなる

幸せな人生のために必要なのは、右腕がない自分を受け入れることだった。

伊藤真波さん:
服を着ていたら一生隠し続けることができるこの傷跡、私の中で一番見られたくない場所で、弱い場所です。
でもいっそのこと、服を脱いで水着を着て、この傷跡をみんなに見てもらおうじゃないか、さらけだそうじゃないか。そうでもしないと、私は強くなれないと思いました

伊藤さんは北京とロンドンのパラリンピックに出場した

伊藤さんは5歳の時に始めた水泳に再び挑んだ。猛練習の末、北京、ロンドンと2大会連続でパラリンピックにも出場した。

母のためにもう一度弾く 

さらに7歳で始めたバイオリンは…

伊藤真波さん:
腕を切断した直後に母が「バイオリンを弾けなくなっちゃったね」と、さらっと言ったんです。
母が「いつかお母さんのためにバイオリン弾いて」と言ったので、始めたんです。それを思い出しまして

「母にもう一度聞かせたい」とバイオリンにも挑戦

もう一度、母に演奏を聞いてもらいたい。
弓を動かすのは、肩甲骨を動かして扱う特別な義手だ。

伊藤真波さん:
ゆっくりの曲の時はゆっくり肩甲骨を動かし、速い曲はずっと肩甲骨を動かし続けます。大きい関節を本当に震わせながら

肩甲骨で義手を動かし弓を操作

和柄の義手にこめた思い

義手を見てもらうため、肌色ではなく、あえて和の柄にした。

義手は肌色ではなくあえて和柄にした

伊藤真波さん:
みんなにとってはびっくりする見た目なんですが、それをふまえて私であり、そういう人たち(障がい者)が世の中に意外とたくさんいて、みんな隠してこっそり生きてるだけなんだということ(を知ってほしい)。
義手は隠すものではないし、異質でもなくて、かっこいい存在になればいいなと思います

伊藤さん「義手は隠すものではない。かっこいい存在になれば」

ありのままの自分を受け入れ、前向きに一歩を踏み出すこと。
伊藤さんの生き方は、私たちに大切なことを教えてくれている。

(テレビ静岡)