9.11テロ攻撃は「歴史からの小休止」といわれたポスト冷戦時代に終止符を打った事件だった。90年代は歴史の終焉論が唱えられ、歴史が終わった世界では、もはや世界史的な事件は起きず、非歴史的な日常の連続で、人々は倦怠感と共に生きていく術を学んでいくしかないといわれた。

フランシス・フクヤマが唱えた歴史の終焉論は、冷戦におけるアメリカの勝利を礼賛したものと解されたが、実はフクヤマはこうした倦怠の中から生まれてくるであろう「末人」の危険性についても論じていた。末人はニーチェ哲学の中核にある概念だが、ここでは単に単調な日常を淡々と繰り返すことに満足する「意味を模索しない人間」とでもしておく。

暴力化していったアメリカ

確かに90年代後半のアメリカにはこうした雰囲気が漂っていた。社会はITバブルに沸き返り、大統領は「世界史的な問題」に対峙するのではなく、インターンとのスキャンダルへの対応に奔走していた。そこに、ニヒリズムの純粋型のようなテロリストが民間航空機をハイジャックして、それをミサイルとしてアメリカ本土を攻撃した。この攻撃は、アメリカを歴史の舞台に暴力的に引き摺り出し、アメリカ自身も暴力化していった。

世界貿易センタービルはこうして崩壊した
世界貿易センタービルはこうして崩壊した
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テロ攻撃への反応はさまざまだったが、民間航空機をミサイルに見立て、それを民間人への攻撃に躊躇なく用いた「純粋悪」に人々は恐れ慄いた。攻撃からしばらくの間は、9月11日の攻撃をもってアメリカに対する攻撃が終わるはずがない、世界は戦争の新しい段階に突入したとの思いを多くの人が抱いた。

崩壊したビルの瓦礫の中で救出活動を続ける消防隊員
崩壊したビルの瓦礫の中で救出活動を続ける消防隊員

あの攻撃から20年。アメリカは、「もっとも長かった戦争」といわれたアフガニスタンへの介入を終わらせ、20年間続いた「9.11戦争」に終止符を打った。アフガニスタンからの撤退は混乱を極め、その混乱自体が、いったい過去20年の介入主義はアメリカになにをもたらしたのだろうかという徒労感を増幅させた。

もしあのテロがなかったら・・・

あの日のテロがなかったら、あのテロを未然に防いでいたら、世界史はどう変わっていただろうか。アルカイダの米国本土への攻撃の可能性については、米安全保障・情報当局は十分に承知していた。2001年夏(the summer of threat)は警告灯が点滅していたことがいまでは明らかになっている。

もし、あのテロがなかったら、国際情勢よりも内政に強い関心を持っていたブッシュ政権の性格は根本的に違ったものになっていただろう。中国を戦略的競争相手と定めたブッシュ政権下では、より競争的な対中戦略が策定されていたかもしれない。

テレビ演説を通してテロに立ち向かう決意を表明したアメリカのブッシュ大統領(当時)2001年9月
テレビ演説を通してテロに立ち向かう決意を表明したアメリカのブッシュ大統領(当時)2001年9月

さらに2008年にオバマを大統領に押し上げた力学は生まれていなかったであろうことは間違いない。であれば、オバマ政権の最大の(意図せざる)レガシーであるトランプ現象もまた生まれていなかったかもしれない。

「イスラム国」の指導者殺害作戦を見守るトランプ大統領
「イスラム国」の指導者殺害作戦を見守るトランプ大統領

しかし、現実には、テロは起き、そのことが、テロリストたちが思い描いていたのとは異なるかたちではあるが、アメリカの行動を大きく規定していった。アメリカにとっても想定外だったのは、対テロ戦争の第一フェーズだったアフガニスタン戦が一見、うまくいってしまったことだ。「帝国の墓場」といわれるアフガニスタンへの介入には慎重な見方もあった。しかし、タリバーンが、テロ攻撃の実行犯を匿っている以上、そこに介入する以外の選択肢はなかった。

アフガニスタン戦争は「正しい戦争」だった

その意味で、9.11戦争の中でも、アフガニスタンにおける戦争は「正しい戦争」だった。しかし、わずか2カ月でタリバーンを掃討し、親米政権の樹立に成功してしまった(とはいっても、実際にはパキスタン国境を越えた付近に追い払っただけで、肝心のビン・ラディンは取り逃がしてしまったが)。本来ならば、ここで対テロ戦争の武力行使の局面に終止符を打つこともできたはずだ。

テロリズムの実行犯は実力をもってして排除しなければならないだろう。しかし、アフガニスタンでその当初のミッションは完了し、第二フェーズに切り替えていれば、つまりテロの根源的要因を絶つという発想に切り替えていれば、後に「永続戦争」と批判されるような状況には至らなかったかもしれない。

しかし、9.11テロ攻撃によってアメリカの暴力装置のスイッチがオンになってしまい、2001年12月の時点で誰もそれをオフにできる人はいなかった。スイッチがオンになっている以上、次の攻撃対象を見つけなければならない。アフガニスタン戦に続いたイラク戦争が「ウォー・オブ・チョイス(選ばれた戦争)」と呼ばれた所以である。

イラク戦争が「間違った戦争」と認識されるまで

イラク戦争はかなり早い段階で、混迷の度合いを深めていく。しかし、それが間違った戦争だったという認識が共有されるまでには15年ほどかかった。民主党の側では、その認識は2006年の中間選挙の頃にははっきりとしたかたちになっていたが、共和党の側でその認識が共有されるにはトランプという特殊な触媒が必要だった。

しかし、その間もアフガニスタンの戦争は「正しい戦争」であり、「必要な戦争」であるというタテマエはどうにか保たれていた。しかし、そのタテマエが、介入から20年を経て音を立てて崩れていった。アフガニスタン戦のすべてのフェーズが間違っていたというわけではない。2011年のビン・ラディン殺害までは、どうにか「正しい戦争」の外見を維持できていた。しかし、そもそもビン・ラディンが殺害されたのは、アフガニスタンではなく、パキスタン国内だ。

パキスタンで米軍によって殺害されたオサマ・ビンラディン
パキスタンで米軍によって殺害されたオサマ・ビンラディン

アメリカのミッションとは

アフガニスタンという国を支えること自体が果たしてアメリカのミッションなのか。もうそうした疑問を説得的に押し返すことはできないと判断し、トランプ政権がその道筋をつくり、それを引き継いだバイデン政権がアフガニスタンからの撤退を敢行した。バイデン政権下で決行された撤退に伴う混乱は、そうした大きな流れの最終章に過ぎない。アメリカはすでに、テロリストによって始めさせられた「9.11戦争」を一方的に終わらせようとしていた。

アフガニスタンからの撤退を敢行したバイデン大統領
アフガニスタンからの撤退を敢行したバイデン大統領

21世紀最初の20年間は、グローバルな対テロ戦争の時代として記憶されることになる。しかし、それが、どういう意味を持つ時代なのかということを確定的に述べるまでには、もう少し時間がかかりそうだ。

【執筆:慶應義塾大学総合政策学部教授 中山俊宏】

中山俊宏
中山俊宏

慶應義塾大学総合政策学部教授、日本国際問題研究所上席客員研究員。専門はアメリカ政治・外交、国際政治、日米関係。1967年東京生まれ。青山学院大学大学大学院国際政治経済学研究科博士課程修了。博士(国際政治学)。2014年4月より現職。ブルッキングス研究所客員研究員(2015-16年)、ウィルソンセンター・ジャパン・スカラー(2018-19年)などを歴任。著書に『介入するアメリカ』(勁草書房、2013年)、『アメリカン・イデオロギー』(勁草書房、2013年)など。