加藤綾子キャスター:
東日本大震災からきょうで10年です。岩手・陸前高田市からお伝えしてまいります、10年前、ここ陸前高田市に巨大な津波が押し寄せ、1700人以上もの方々が犠牲となりました。今私がいるこの場所、地上からおよそ14メートルほどある屋上です。しかし震災当時襲ってきた津波の高さは、およそ15メートルほどでした。私の隣にありますこちらの看板。津波が到達した水位を表すものなのですが、この高さまで津波が襲ってきました

加藤綾子キャスター:
この場所はかつて、市の中心部でした。多くの建物があり、人々が生活を営む場所でした。10年がたった今、周りの地面はかさ上げされ、この建物だけが当時のまま残されています。実はこの建物はあの日、この場所にしがみついて奇跡的に助かった男性が、震災の経験を伝えるために残したものなのです。イット!では震災の記憶をどう未来に残していけばいいか。「未来へつなぐ」この言葉とともにお伝えしてまいります

大津波の中、屋上の煙突が命をつないだ
加藤綾子キャスター
こんにちは。加藤と申します。よろしくお願いいたします
米沢祐一さん:
米沢と申します。よろしくお願いします
加藤キャスターが11日、陸前高田市で訪ねたのは米沢祐一さん。

米沢さんは震災前、包装資材などを販売する店を営んでいた。震災で津波が襲ったとき、米澤さんはその建物の煙突に上ったことで、命が助かった。
そのときに撮影した映像には、ビルの屋上の煙突にまで押し寄せた津波が写っていた。
米沢祐一さん(震災当時):
あーやべえ

凍えるような寒さと恐怖に耐えながら、屋上で一晩を明かした米沢さんは、屋上の泥で「SOS 外に出れない」と書き、ヘリに救助を求めた。震災翌日の12日、自衛隊によって救出された。
「津波があふれて…」今も忘れぬ恐怖の記憶
10年前の3月11日。激しい揺れに襲われた後、倉庫の片付けに向かった米沢さん。このビルで経験したあの日のことを、加藤キャスターが聞いた。
米沢祐一さん:
じゃあまず、市民会館でねって(両親と)別れたんですよね。で、自分は倉庫に行ったんですけども、それが両親との最後になりました

倉庫で片付けを始めたとき、防災無線が大津波警報による避難を呼びかけていることに気づき、急いでこの建物に逃げ込んだ。そのまま駆け足で屋上へ。
米沢祐一さん:
もうここで見えた景色っていうのは全く違っていて。もう周り全部、真っ黒でした

米沢祐一さん:
次の瞬間にこのハシゴを上ってました
屋上からさらに上へと逃げる…その時だった。
米沢祐一さん:
ちょうどこの辺まで上ったときに海側を見たんですね。そうしたら、ちょうどここまで登ったときに(屋上の)柵をですね。津波があふれてダーッと越えてきたの

加藤綾子キャスター:
ここに上ってもうそこまで(津波が)来てたんですよね
米沢祐一さん:
そうですね、越えてきてましたので。ここに上ったときにはもう屋上よりも上でした
加藤綾子キャスター:
なんかもう体が動かなくなりそうです。恐怖で
さらにはしごを上り、狭い煙突の上へ。
米沢祐一さん:
ここまで上りまして、津波が来るのにここ押さえて耐えてました。どんどんどんどん水位が上がってきて、あー来る来る来ると思って。体に力を入れて来るのに備えていたんですけど。幸いなことにですね、自分の足元のここまでしか来なかったんですよ

米沢祐一さん:
パッと見て、市民会館が津波の底に沈んでるのが見えたんで。もうここは洗濯機の中みたいなこんなになっていたんです。もう、うちの両親と弟は死んじゃった…と、ここで思いました
実際に、加藤キャスターが煙突に上ってみると…。
加藤綾子キャスター:
この高さですか…。しかももうここって本当に座布団一枚、その広さしかないですね。高さも恐ろしいけど、ここまで津波が来たということも恐ろしい

命を救った建物を「震災遺構」として残した
建物に助けられた命。米沢さんはこの建物を震災遺構として、独自で保存することを決意。震災直後から、自らの体験を伝える活動を始めた。

陸前高田市を襲った津波は高さ17m。1606人が犠牲となり、202人の行方が分かっていない。その陸前高田市も復興は進み、被災した建物は撤去され、かさ上げ工事などで街の景色もすっかり変わった。街にぽつんと残る建物は、以前の街を思い出すためのわずかな目印だ。

2014年当時の米沢さんは、このように話している。
米沢祐一さん(2014年当時):
新しい町ができても、その前に住んでいた街並みとか一緒にいた、亡くなった人たちとかを忘れないようにしようっていう。そういう気持ちが強いですね
そんな父の思いを受けて育った一人娘・多恵さん。震災の1カ月ほど前に生まれたばかりだった多恵さんは、その目で津波を見ていない。それでも…。
米沢多恵さん(2019年当時):
津波が来たら高いところに逃げるということを忘れない

父の思いは、多恵さんの活動へとつながっていた。
防災への思いは一人娘に受け継がれた
自らの命を救ってくれた建物を“物言わぬ語り部”として保存し、あの日の経験を伝える米沢さん。今その思いを受け継ごうとする人がいる。2019年にリニューアルオープンした、米沢さんのお店で、加藤キャスターが出会ったのは…。

加藤綾子キャスター:
こんにちは
米沢多恵さん:
米沢多恵です
出迎えてくれたのは、米沢さんの一人娘・多恵さんだ。震災の1カ月ほど前に生まれた多恵さんも4月から、小学5年生になる。

米沢祐一さん:
このお店の初めてのお客さんです。オープンしたときの第一号の
加藤綾子キャスター:
なんで初めてのお客さんになりたかったんですか?
米沢多恵さん:
新しいお店だから
これまで米沢さんは、多恵さんをあの建物に連れていき、繰り返し津波の話を聞かせてきた。2019年当時の祐一さん、多恵さんはこのように話している。
米沢祐一さん(2019年当時):
多恵はどうする?津波が来たら
米沢多恵さん(2019年当時):
高い所に逃げる

米沢祐一さん(2019年当時):
高い所に逃げる?海から離れたところね。とにかく逃げるのね。絶対それだけは忘れないで
2019年には、陸前高田市が要請する地域の防災リーダー「防災マイスター」の講座を、父・祐一さんと一緒に受講。小さな体を一生懸命使い、応急処置の練習に取り組んだ。

防災マイスターは中学生以上が対象だが、市は新たに「キッズ防災マイスター」を作り、多恵
さんを認定した。

米沢多恵さん(2019年当時):
防災はこんなに命を救ったんだぞって友達に教えたいです
震災の伝承活動を続ける父の思いは、娘にも伝わっている。
(「イット!」3月11日放送)