2011年3月当時、私は東北大学に研究室を持っていた関係で、内視鏡の診察を行うため、宮城県東松島市矢本にある真壁病院を定期的に訪れていた。

海岸線から直線距離にして約2キロ程度の位置にある真壁病院にもその日、津波は押し寄せた。

津波によって失われたカルテ

2011年3月11日17時頃に真壁病院から撮影。写真右側のJR鹿妻駅周辺は海のように(提供:真壁病院)
2011年3月11日17時頃に真壁病院から撮影。写真右側のJR鹿妻駅周辺は海のように(提供:真壁病院)
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病院が建っていたのは古くからある集落の一角で、ちょっとした小高い丘のようになっている土地だったために波の力が分散されたのか、病棟の全壊といった事態は幸いにも避けられたようだ。

それでも停電や断水は発生し、電話もまったく通じず、さらには地下倉庫への浸水が起こったことで、そこに保管されていた患者のカルテはすべて失われてしまった。

震災当日は診察日ではなかったため、私は真壁病院に滞在してはいなかった。このような被害を受けた病院ということもあり、大変だからしばらくは診察に来なくてもよいと伝えられてはいたものの、阪神大震災が脳裏にあった神戸出身の私としては、そうはいっても患者はいるのだからと、数ヵ月経ってから再び定期的に応援診察に向かうことにした。

一変した風景

2011年3月11日に撮影した病院の正面玄関。玄関先まで津波が押し寄せた(提供:真壁病院)
2011年3月11日に撮影した病院の正面玄関。玄関先まで津波が押し寄せた(提供:真壁病院)

震災から数ヵ月後、初めて真壁病院を訪れた時に目にした光景は、今でも忘れることはできない。津波により壊滅的な被害を受けた航空自衛隊松島基地からさほど離れていない立地であったため、付近一体は津波に激しくさらされた。

2011年3月12日に撮影した病院の駐車場。車はほとんどが廃車に(提供:真壁病院)
2011年3月12日に撮影した病院の駐車場。車はほとんどが廃車に(提供:真壁病院)

周囲を見回せば、いたるところにガレキの山が残り、田畑には流されたのであろう車が何台も無惨に転がっている。まだ震災の爪痕が、生々しすぎるほど残っている時期だった。

2011年3月11日17時頃に真壁病院から撮影。左の建物は透析室(提供:真壁病院)
2011年3月11日17時頃に真壁病院から撮影。左の建物は透析室(提供:真壁病院)
東日本大震災後の2011年10月に撮影(提供:真壁病院)
東日本大震災後の2011年10月に撮影(提供:真壁病院)

震災前から7年近くにわたり何度も足を運び、とうに見慣れていたはずの病院を取り巻く環境は、文字通り一変したのだ。

もちろんそんな光景は、病院の周辺だけではない。仙台から矢本に向かうまで、どこを見ても変わり果てた姿と言うほかなかった。周知の通り、岩手県や宮城県の太平洋沿岸部は、どこもかしこも痛々しい光景ばかりが並んでいた。

診察室でただただ耳を傾ける

そんな環境の中で、再び診療は始まった。震災が起ころうとも、それまで通院されていた患者は診察を受けるためにやって来る。

しかしカルテが失われてしまったので、患者の氏名もわからないし、過去にどのような症状を持っていたのかという情報も手元にない。

2011年4月28日撮影した病院地下カルテ庫。地震で棚が倒れ、津波により浸水した(提供:真壁病院)
2011年4月28日撮影した病院地下カルテ庫。地震で棚が倒れ、津波により浸水した(提供:真壁病院)

本人から名前をうかがい、それを受けて事務の職員たちとおそらくこの方ではないかと記憶を探りながら、まっさらな白紙の状態から新しいカルテを作り直す作業を行うほかなかった。

おそらく以前どこかの時点で診たことのあるおばあちゃんではなかろうかという患者もいたが、カルテがない以上、確かなことはまったくわからない。まずはとにかく本人からの話をひたすら傾聴することが、診察のスタート地点であった。

そのおばあちゃんはある日、息子さんが津波で流されてしまい、まだ見つかっていないのだと話した。状況から鑑みるに、おそらく息子さんは亡くなった可能性が高いのではないかと想像されたが、ただただ耳を傾けるほかなかった。

失われつつある震災の記憶

東北地方の方々には感情をあまり表に出さず、我慢強い人が多いという話を耳にする機会もある。

そんな人々が少しずつ紡ぎ出してくれた話の多くからは、あまり声高に語らないその語り口と相まって、目の前で起きている事態の悲惨さをなおさら強く実感させられた。そんなことを10年経った今でも鮮明に記憶している。

私は2015年頃まで、真壁病院での診察にあたっていた。その後、あのおばあちゃんはどうなったのだろうかとふと思い、探してみたりもしたのだが、再びお会いすることはかなわなかった。

当時の彼女の年齢も考慮すると、すでにお亡くなりになってしまったのかもしれない。そして、それとともに震災の貴重な記憶も少しずつ失われていってしまうのだろう。

10年、20年と時を追うごとに、当時の記憶を持つ人が一人また一人とこの世を去っていくのは避けられないことだ。しかしあの悲劇の記憶もまた、それに伴い忘れ去られてしまうという状況は、なんとか防げないものだろうかとも考える。

報道が少なかった雄勝病院の悲劇

当時の記憶や記録を後世に伝えていく上で、メディアは大きな役割を果たすだろう。ただ当時、メディアの意味というものについて考えさせられた一件があったことも覚えている。

石巻市立大川小学校(2011年)
石巻市立大川小学校(2011年)

児童の3分の2以上が命を落とした石巻市立大川小学校については、その後メディアによって数多くの報道がされ、現在では「震災遺構」として校舎の保存が進められ、多くの方がご存知のことと思う。

一方で、その大川小学校から山をひとつ越えた場所に、石巻市立雄勝病院という名の病院があったことをご存知の方は、おそらくそう多くないのではないか。

大川小学校で起きたことについては、すでに周知されていると思うのでここでは省くが、実は雄勝病院でも大変な悲劇が起きていた。

海に面した低地にあった3階建ての病院は、屋上まで何度も押し寄せる津波に飲み込まれ、40人いた入院患者全員に加え、院長・副院長も含め医師・看護師など病院にいた者の9割以上が犠牲になったのだ。

2011年3月30日に撮影された雄勝病院。 提供:東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)
2011年3月30日に撮影された雄勝病院。 提供:東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)

3月11日の夜、自衛隊が現地にたどりつく。そして救助しようとしたところ、院長は「患者や職員がまだ生き残っているかもしれない。それを探す責務が自分にはあるので、助けるのであればほかの人を助けてほしい」と言い、救助を断ったそうだ。

救助を断念した自衛隊が翌日再び現地を訪れたところ、その院長は凍死した状態で見つかったとのことである。患者や職員の無事を確認することなく、自らの命を救うことをよしとしなかったのであろう。

対照的なふたつの被災現場

震災から1年ほど経った頃、震災直前までたまたま気仙沼市のある病院の病院長を務めていた大学の先輩に案内され、私は宮城県の沿岸部を中心に被災地をぐるっと回ったことがある。

この時に先輩からぜひ見ておいた方がよいと言われたのが、雄勝病院であった。大川小学校にも立ち寄り、その後に雄勝病院に向かったのだが、現地に到着して両者の雰囲気の差に大変驚くこととなった。

大川小学校の前には、石像が立てられ山のような花束が供えられていた。一方、雄勝病院はといえば、ただただ廃墟となった病棟が残されているのみで、まさにゴーストタウンとしか言いようのない、寂寥たる光景が広がるのみだった。

2011年3月30日に撮影された雄勝病院。 提供:東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)
2011年3月30日に撮影された雄勝病院。 提供:東日本大震災アーカイブ宮城(石巻市)

目と鼻の先にあると言っても過言ではないふたつの悲劇の舞台が、一方には山ほどの花束が供えられ、一方には廃墟が残されているだけ。

メディアが大々的に取り上げたか否かのみがこの差を生んだ理由とまでは断言しないが、それなりに因果関係もあるのではないかと、当時考えさせられた。

もちろん、メディアで取り上げられるのが一概に良いことだとも言えはしない。しかしこんなにもくっきりと様相の異なる風景を突きつけられると、ニュースとして報道が少なかった、されなかったものの、同じような悲劇に見舞われていた場所は、おそらくほかにも多々あったのではないだろうかと思わざるをえない。

メディアと自分との温度差のようなものを、改めて実感させられる経験だった。

あの震災は過去のものではない

西宮に実家があった私としては、阪神・淡路大震災は文字通り他人事では済まされないものだった。友人・知人も数多く失ってしまった。そして東日本大震災で、震災の恐怖に再び襲われたという訳だ。

このような震災は、間違いなく日本のどこかでまた起こるはずだし、ちょうど本稿の執筆中だった2月13日の夜にも、福島県沖を震源とする震度6強の地震が起こり、宮城県・福島県を中心に被害が生じた。

震災の記憶・記録を後世に伝えていくことはもちろん重要だが、こうした災害による被害をいかに小さくできるかという方向性の取り組みが、なによりもまず大事だろう。震災の悲劇や恐怖は、実際に体験してみて初めてわかるものだが、それがわかった時にはすでに時遅しという厄介なものである。これは私が日々対峙している病気と共通したものとも言える。

医学の世界では予防医学が重要とされているが、震災も起こってしまってからでは遅いのとまったく同じだろう。災害に対しては「防災学」という、しっかりした学問体系を持つ分野があり、実践においても役立つものだと聞く。予防医学もまだまだ進歩・発展していく余地は多々あるが、同様に防災学もたゆむことなくどんどん発展していってほしいと切に思う。

災害はいつ何時やって来るかわからない。先日の地震は、10年経ってなお東日本大震災の余震とのことだ。つまり東日本大震災は決して過去のものではなく、まさに現在進行形のものなのだと考え、常に備え、予防を心がけることが必要なのだろう。

一石英一郎
兵庫県神戸市出身。医学博士。国際医療福祉大学病院内科学教授。世界の著名ながん研究者が名を連ねる米国癌学会(AACR)の正会員(Active Member)。DNAチップ技術を世界でほぼ初めて臨床医学に応用し、論文を発表。人工透析患者の血液の遺伝子レベルでの評価法を開発し、国際特許を取得している。著書に『医者が教える最強の温泉習慣』(扶桑社)、『親子で考える「がん」予習ノート』(角川新書)など。

一石英一郎
一石英一郎

兵庫県神戸市出身。医学博士。国際医療福祉大学病院内科学教授。世界の著名ながん研究者が名を連ねる米国癌学会(AACR)の正会員(Active Member)。DNAチップ技術を世界でほぼ初めて臨床医学に応用し、論文を発表。人工透析患者の血液の遺伝子レベルでの評価法を開発し、国際特許を取得している。著書に『医者が教える最強の温泉習慣』(扶桑社)、『親子で考える「がん」予習ノート』(角川新書)など。