東日本大震災から2021年3月11日で10年を迎える。10年前の3月11日、運命を変えた一日を見直す。
東日本大震災から10年「あの日の記憶」
2011年3月11日午後2時46分。
三陸沖を震源とする、国内観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震が発生。宮城県栗原市で最大震度7、大崎市や石巻市で震度6強を観測し、建物の倒壊や道路の崩壊など、宮城県内各地に大きな被害を出した。

さらに、海沿いには、宮城、岩手、福島を中心とした、太平洋沿岸を巨大な津波が襲った。津波は石巻市鮎川で高さ8.6メートル以上を記録。場所によっては、陸地を40メートル以上かけ上がった。


小山裕隆さん:
あちらに魚市場があるんですけど、あちらから波が来ました

宮城県気仙沼市で菓子店を営む小山裕隆さんは、避難したビルから津波を撮影していた。
小山裕隆さんのカメラの津波映像:
津波が来ました

気仙沼湾に面する道路の奥から、静かに津波が迫ってきたかと思うとわずか5分後には2階付近まで水かさが増し、マンホールからは逆流した黒い水が噴き出した。

小山裕隆さん:
イメージしていた津波とは全く違って、ただ飲み込まれていくという感じでした

小山さんの家族や店の従業員は全員無事だったが、自宅や店はすべて流失。自然の猛威を前に言葉を失ったという。

小山裕隆さん:
どうやったってあらがえない、自然の猛威を経験しちゃうと、どうしようもないですね

津波による宮城県内の住宅被害は全壊、半壊を合わせて約40万棟に上った。

記者リポート:
仙台市宮城野区周辺にいます。こちらでは黒煙がもうもうと上がっています

地震と津波は多くの火災も引き起こした。消防庁の調べでは、確認されているだけで、宮城県内で163件の火災が発生。複数の災害が重なり、消火作業はほとんど進まなかった。

あの日から10年…。名取市閖上で親子に再会
一方、宮城県内の至るところで夜通しの救助や捜索が行われた。津波によって浸水した地域では、家族の安否さえ分からず、多くの人が不安な時間を過ごした。


ーー娘さんと連絡が取れていない?
高玉明子さん(2011年3月12日取材):
無事だというのは聞いていたんですけど
ーー小学生ですか?
高玉明子さん(2011年3月12日取材):
いや、保育所

ーーいま行けない状態?
高玉明子さん(2011年3月12日取材):
道路が真ん中だけ浅いと言ってたので、パパが行っている
ーーまもなくお父さんがお子さんを連れてくる?
高玉明子さん(2011年3月12日取材):
多分

宮城県名取市閖上を取材していたカメラは、津波が襲った翌日、1組の家族の様子を捉えていた。保育所に通っていた幼い娘。浸水した近くの小学校に避難していたことが分かり、探しに来ていた。


あの日から10年…。親子に再会した。

高玉そらさん:
改めて聞くと人生で経験できないことだと思う。心の中にずっと置いておかないといけないなと思います

父・高玉友伸さん:
とにかくがむしゃらというか、娘のことしか考えてなかったというのが、あの時の私のすべてだったと思う

津波の心配のない場所で子供たちを育てたい。あの日を経験した高玉さん親子は閖上を離れ、今は宮城県名取市の内陸部で暮らしている。

高玉友伸さん:
みんなが迎えに行く場所は、絶対安全な場所じゃなきゃだめだと思っている

父親の高玉友伸さんは地震の直後、職場のある仙台市から自宅のあった閖上に向かった。大津波警報が出されたことを知っても、娘を迎えに行こうとした高玉さんを消防団が引き留めてくれたという。


高玉友伸さん:
とっさに娘を迎えに行くという行動を取っていましたので、消防団の人たちに止められなければ、閖上に入っていた

当時5歳だった娘のそらさんは、現在15歳。震災後には弟の楓大くんも生まれた。

当時は避難所で暮らしていて見れなかったというニュースを10年ぶりに家族で見てもらった。

高玉明子さん:
何も言えない。無事でよかったかなと思う

10年ぶりに思い出す、当時の不安な思いと安堵。あの日を経験したからこそ、子供たちにしっかりと震災の記憶を伝えていきたいという。

高玉友伸さん:
まだここで教えてもピンときてないと思うんですが、ある程度分かってきたときには家族がこういうことがあったというのをしっかり伝えるのと、私たちは助けていただいたので、そこに感謝で、大勢亡くなった人たちの分も、私たちもしっかり生きていかなければいけないと思います

(仙台放送)