1939年9月に勃発した第二次世界大戦。
ポーランドに進軍したナチスドイツが、ユダヤ人への迫害を強めたことで、その多くが難民となりました。そのユダヤ難民に救いの手を差し伸べたひとりが、宮崎出身の外交官・根井三郎でした。その功績を振り返ることができる場所が、宮崎市内にできました。
1939年9月、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。ポーランドに進軍したナチスドイツは、ユダヤ人への迫害を強めました。
身の危険を感じたユダヤ難民は国外脱出に必要なビザを求め、隣国のリトアニア日本領事館の杉原千畝のもとへと押し寄せました。
杉原千畝は、1940年7月末から約1カ月の間に独断で2000通余りのビザを発給。家族を含めて約6000人の命を救ったとされ、「命のビザ」として知られています。
この「命のビザ」に深く関わっていたのが、宮崎出身の根井三郎でした。
当時根井は、旧ソビエト連邦の東側にある都市、ウラジオストクで日本総領事館の総領事代理を務めていました。
そこには、シベリア鉄道を横断して多くのユダヤ難民が押し寄せました。増加するユダヤ難民の対応に苦慮した日本政府は、根井に対しユダヤ難民の日本への入国を厳しく取り締まるよう命令しました。
しかし根井は・・・
(根井三郎)
「ユダヤ人難民は、一度ここまで到着した以上は再び引き返すことはできない。単に、ビザが中米行きになっているとの理由で日本入国の検印を拒否するのは、日本領事館が発給したビザの国際的信用から考えてもよくない」
杉原の「命のビザ」をつなぎ、根井もユダヤ難民が日本行きの船に乗るためのビザを独断で発給したのでした。
根井の出身地、宮崎市佐土原町。
ここに10月、根井三郎の功績を伝える常設の展示場が完成しました。
(根井三郎を顕彰する会 根井翼会長)
「根井三郎がやってきた業績というものを知らない方が多いんですよね。それはなぜかというと、根井三郎自身が、自分から発信していないんです。だから世に知られなかったというのが一番の要因なんですよ」
1992年に90歳で亡くなった根井三郎。2020年に、アメリカで根井が発給したビザが発見されるまで、その功績は、誰も知りませんでした。展示場には、根井の足跡を記した年表、アメリカで見つかったビザやユダヤ人家族の写真など、貴重な史料が展示されています。
(根井三郎を顕彰する会 根井翼会長)
「中学生とか小学生にも話をするんですけどね、自分たちの住んでるこの街にこんな素晴らしい人がいたということは本当に知らなかったと、もう誇りだと言う児童生徒もいます。だから、この資料の展示棟に来ていただいて、根井三郎のことを知っていただきたいなと思います」
いまも世界で、人々や国同士の争いが絶えない中、宮崎出身の根井三郎が果たした功績に目を向け、「平和」や「命」について考えるきっかけにしてみませんか。
