2011年に起きた東日本大震災の影響で起きた福島第一原子力発電所の事故。避難指示を受けなかった地域でも、放射線の影響を恐れて避難した人は少なくありません。
そうした人たちも含め、原発事故の責任を国と東京電力に問うために大阪地方裁判所に提訴した裁判は、9月2日に判決が言い渡されます。
事故が起きた時、生後5カ月だった少女は、生まれた街・福島県郡山市に残る父と離れ離れのまま15歳になりました。
そして「ふるさと」で育った記憶がないこと、無関心が再び原発事故につながるかもしれないこと、さまざまな思いを初めて自分の言葉にして人前で語りました。
■「『ふるさとはどこ?』って聞かれてもわからない」15歳の少女
大阪市に暮らす、森松明希子さん(52)と長女の明愛さん(15)は、原発事故による放射線の影響を恐れて、福島県郡山市から大阪へ避難してきました。
明愛さんは「『ふるさとはどこ?』って聞かれてもわからない」と母・明希子さんに語ります。
2011年3月に起きた東日本大震災。津波によって福島第一原発は事故を起こし、周囲に放射性物質が飛散しました。
■避難指示区域外からの避難も一時5万人超
政府は避難指示などの区域を決定し、この区域内から一時、11万人以上が避難しました。(2012年8月時点・裁判資料などによる)
郡山市は、原発からおよそ60キロ。政府から避難指示を受けることはありませんでした。
しかし森松さんたちは、周囲に放射線量が高い場所があり、国などが示した基準によって子供が外で遊ぶことを制限されるなど、郡山での生活を心配していました。
森松さんは、明愛さんと兄を連れ、2011年5月から大阪に避難しました。明愛さんは生まれたばかり。生後5カ月でした。
このような避難指示区域の外から避難した人は、多い時で5万人以上いたとされます。(2012年8月・裁判資料などによる)
■勤務医の父はふるさとに残り
森松明希子さんは2013年の取材に「こんなに長く2年半も避難しないといけないなんてそのときは思ってもいなかった」と語っていました。
勤務医である夫の暁史さんは、地域医療を支えるため、地元に残る選択をしました。
子供たちが幼いころは、年に数回、郡山市に帰ることもあり、そんなときには料理好きの暁史さんが腕を振るいました。
当時2歳だった明愛さんは、父親の作る料理を「おいしいの!」と喜び、「ずーっとおる」と話すことも。
子供たちが大阪に帰るのを見送ったあと、暁史さんはコップに注いだ酒を飲みながら家族の写真を見つめていました。
【父・暁史さん】「ついつい酒量が増えちゃうんですよね、恐ろしいことに。原発事故のあと、辞めてしまった医師も多いので、支えないといけないんです。家族は元気で、大阪にいればいいのかなって…」
「親として、少しでも子供たちのリスクを下げたい」という思いからの決断でした。
■森松さん一家は国と東京電力に責任を問う裁判の原告に
森松さん一家は避難から2年後の2013年9月、国と東京電力に原発事故の責任を問う裁判の原告団に加わりました。
国による経済的な支援など、希望する人が「避難できる権利」を求めてきました。
【森松明希子さん(2013年・提訴時)】「幼い子供たちを屋外で思う存分遊ばせることができないなど、実質的にはまともな生活、育児はできません。避難することの選択が自由にできるように避難する権利を認めてもらいたいと思います」
全国各地で1万人以上が同様の裁判を起こす中、大阪地裁には220人以上が提訴。裁判は長期化しました。
提訴から12年以上経った2025年12月に裁判はようやく結審。幼かった子供たちは高校生と中学生になっていました。
裁判を振り返って、明希子さんは「全国にまだ、私と同じような避難生活を続けている人がいます。そのことが全然理解されていないのが一番つらいです。母子避難なんてやるものではないし、やらなくていいなら、しませんよね」と語りました。
裁判を戦ってきた母親の背中を見ていた明愛さんは「昔は街の中で、たすきをかけて、街頭演説をやっているのを『恥かしいな』と思っていたけど、今は誇れることをやっているなとは思います」と語りました。
■にぎわい取り戻した郡山…も
15年が経つうちに、線量が下がってきた郡山は、以前のようなにぎわいを取り戻していました。
地元の人たちのなかには「新型コロナウイルスの方が心配だったので、原発事故の記憶はだんだん薄れて行ってしまいます」、「住んでいる分には全然意識もしてない」と語る人もいます。
一方、避難している人たちは、避難先で子供が進学し、友人も増えていくなど、その生活基盤が整うほど、ふるさとに戻ることは難しくなっていきました。
2026年8月のお盆、今も郡山市に1人残る父・暁史さんは、家族とバラバラの暮らしを「うちに帰ってきて誰もいないとき、ふと、めちゃくちゃ寂しくなる」とつぶやきました。
■15歳の少女が自分の言葉で語った
先に進んだ同様の裁判で、最高裁判所は2022年、「国が、適切な対策を講じるよう東京電力に義務づけたとしても、事故を避けられなかった可能性が高い」などと指摘。
国の責任を否定する判断を示しました。
それ以来、全国の裁判で国の責任が認められない判決が相次いでいます。
薄らいでいく原発事故の記憶。ことし3月、事故から15年を迎えるにあたって、原発の利用について考えるイベントで、明愛さんは避難生活と裁判について、初めて人前で自分の言葉で語りました。
【森松明愛さんのスピーチ】「私には事故の記憶は当然ないですし、物心ついたときにはすでに父と離れて暮らしていたので、正直言うと、ふるさとを奪われたという実感を自分の言葉で語ることは難しいです。
けれど、15歳になった今の当事者として、今の社会に対して強く感じている危機感があります。
本来、今の日本では戦争反対と当たり前に言えるのと同じように、原発反対も当たり前に言える社会であるべきです。
しかし、国民が事故を忘れていくのと同時に、何年、十何年かけてじりじりと原発が正義になります。ただ、今一番多いのは、どうでもいいという無関心な層です」
原発事故が起きなければ、家族が離れて暮らすことはありませんでした。
被害が「なかったこと」にならないよう、司法が国の責任を認めることを願っています。
■菊地幸夫弁護士「もう一度判断を考え直してみたら」
原発事故について、国の責任を否定する判断が続いていることについて、菊地幸夫弁護士は次のように述べました。
【菊地幸夫弁護士】「原発というのは国策として進められてきて、『安全神話』=『原発は絶対安全です』というような前提のもとに進められてきたわけです。
それが大きく崩れて、その被害も我々は経験したことがないものでしたから、国がその不安を正面から認めて、こういった裁判に対して、ある程度被害を認めるというのは、十分、理屈としても成り立つ面もあると思います。
だから最高裁の判断は出ていますが、他の地裁や高裁も含め、もう一度判断を考え直してみたらどうかと思いますね」
(関西テレビ「newsランナー」2026年8月28日放送)
