“没後80年”宮本信子さんが語る義父・伊丹万作の素顔

映画監督「伊丹万作」を知っていますか?

「マルサの女」などで知られる映画監督・伊丹十三の父で、息子と同じく監督だけでなく脚本家、画家、エッセイストとマルチな才能の持ち主だった。

2026年で没後80年。

十三の妻・宮本信子さんが義理の父「万作」について語った。

「時代劇にクラシックですかって感じで」型破りな映画監督

テレビ愛媛のアーカイブに残る貴重なインタビュー。

在りし日の映画監督 伊丹十三だ。

映画監督 伊丹十三:
「いつか映画を作ろうと、いつも言ってるわけ。こんどのこれは映画になりそうだねってずっときてるわけだからね」

1985年、初監督作品「お葬式」について語る伊丹十三と、妻で俳優の宮本信子さん。

宮本さんにはずっと、夫に映画を作ってほしい、ある理由があった。

俳優 宮本信子さん:
「いつも話してたんですよね。映画作ることは夢ですし、彼は『伊丹万作』の子供なんだから絶対映画撮って欲しかった」

十三の父・万作。

松山市出身で戦前に活躍した映画監督だ。

その万作が亡くなって今年で80年になる。

夫に映画を作ってほしい、ある理由があった
夫に映画を作ってほしい、ある理由があった
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“きょうは開館記念日”館長として自ら来館者を出迎える宮本さん

2026年5月15日、きょうは伊丹十三記念館の開館記念日だ。

宮本信子さん:
「ようこそいらしてくださいまして、ありがとうございます」

松山市の伊丹十三記念館。

この日、館長を務める宮本さんは自ら来館者を出迎えた。

そんな宮本さんが、我々のカメラをあるコーナーに誘った。

宮本信子さん:
「これがお父様のコーナーですね。伊丹万作」

宮本さんは自ら来館者を出迎える
宮本さんは自ら来館者を出迎える

時代劇のオープニングに万作は“ショパンの「雨だれの前奏曲」”を選んだ

記念館には、十三の資料だけでなく、十三の父 万作の写真や日記、映画の台本といった資料も展示されている。

伊丹万作とは、どんな人物だったのだろうか。

宮本信子さん:
「すごくユニークで、誰にもまねできないようなことをなさった方だなって思ってます。例えば『赤西蠣太』でいいますと、最初に雨が降っていて、クラシックが流れるじゃありませんか。もうビックリして。時代劇にクラシックですかって感じで」

映画「赤西蠣太」は、伊達家仙台藩のお家騒動を描いた1936年(昭和11年)の時代劇で、当時のトップスター 片岡千恵蔵が主人公の赤西蠣太と敵役を一人二役で演じたことでも知られる。

万作の脚本では、映画の始まりがこう描かれている。

「雨。屋根に、土に、瓦」

その時代劇の始まりに、万作はショパンの「雨だれの前奏曲」を選んだ。

宮本信子さん:
「あの時代、クラシックなんてかけません。たいてい太鼓の音とかね、三味線の音とかね、そういうものですよね、バックのミュージック。新しいですよ、やっぱり。感覚が」

時代劇の始まりに使ったのは“ピアノの詩人”ショパン
時代劇の始まりに使ったのは“ピアノの詩人”ショパン

伊丹万作は明治33年に松山市湊町で生まれた

伊丹万作こと池内義豊は、1900年(明治33年)に松山市湊町で生まれた。

松山中学を卒業後、画家を目指して上京し、1918年(大正7年)に挿絵画家となる。

しかし、挿絵に芸術性を求めすぎたのか、次第に生活は苦しくなり、志半ばで帰郷。

1926年(大正15年)、松山市三番町でおでん屋「瓢太郎」を開いた。

宮本信子さん:
「(十三に)『はやったんですか』って聞いたらおいしかったらしいんだけど、あまりにも出汁を凝りすぎちゃって、すごくお金がかかっちゃったんですって。おいしいものを作ろうと思って、結局赤字でつぶれちゃったって」

おでん屋の経営にも失敗した万作は、松山中学の友人で映画監督となっていた伊藤大輔を頼って京都へ。

そこで1928年(昭和3年)、「伊丹万作」というペンネームで監督デビューを果たす。

本物の剣豪が偽物に敗れる喜劇映画「国士無双」など、知性とユーモアあふれる作風で時代劇に新風を吹き込んだ。

挿絵画家となるが芸術を求めすぎて帰郷
挿絵画家となるが芸術を求めすぎて帰郷

伊丹十三の誕生、そのときの気持ちは

1933年(昭和8年)に長男の岳彦、のちの伊丹十三が誕生する。

万作はその時の気持ちをこう綴っている。

「ソノトキ父ハ 嬉シサト心配ノアマリ 何ヲシテヨイカ 自分ノスルコトガ ワカラナカツタノダ ヨスルトソノウチ 突然オマエノ最初ノ声ガ高ラカニ聞エテキタ ソノ声ヲ 父ハ一生忘レナイダロウ」

そんな子煩悩な万作について、十三は後年、宮本さんにこんなエピソードを話している。

宮本信子さん:
「すごくビックリした話は、みんな汽車を待ってる、みんな並んでいる、そこへ、ちょっと怖い反社会的な、そういう方が割り込んできたんですって。そしたら伊丹万作さんは、ちゃんと並びなさいって『みなさん並んでるから、ちゃんと並んでください』バチって言ったんですって。そのことを小っちゃい時、十三さんは憶えててそれが『ミンボーの女』に」

十三が暴力団の民事介入暴力をテーマに描いた1992年の映画「ミンボーの女」。

そこには、間違ったことには毅然とした態度で臨む、父の姿が重ねられていた。

宮本信子さん:
「ありますよね子供心に、父親のバッって静かに、だから静かな迫力があったんじゃないですか。伊丹万作さんに」

しかし、親子の時間は長くは続かなかった。

1992年の映画「ミンボーの女」
1992年の映画「ミンボーの女」

万作は「不治の病」肺結核を患う

映画監督・伊丹十三の父万作は1938年、昭和13年、十三が5歳のとき、肺結核を患う。

当時、結核は「不治の病」だった。

宮本信子さん:
「なんてこんなに切ないんだろうと思って、抱くこともできないし、それで、どうしてたんですかお父様はって言ったら、鏡で子供の姿を追ってたっていうの。それを聞いたらまた胸がグッときちゃって。寝てて子供がいるところをこうやって見てるわけですよね。ここから」

宮本信子さん:
「こういう日がお父様は続くと思って、まさかねえ」

記念館には、病床の父と子供たちをつなぐ、ある思い出の品がある。

宮本信子さん:
「ほら、これですよ。お父様の手描きのカルタ」

万作が作ったカルタには「古池や、かわづ飛びこむ水の音」など、松尾芭蕉の俳句と絵が一枚一枚すべて手描きで書き込まれている。

実はこのカルタ、もともとは「子供トナリグミカルタ」という、戦時中の子供の心構えを書いたものだった。

万作は“我が子をこのトナリグミカルタで遊ばせたくない”と、裏面に自分で絵を描いて作りかえたのだ。

宮本信子さん:
「お父様が子どものために作った。こんなので遊んじゃだめだって。こういうカルタで遊んじゃだめだって。で、このカルタで本当にきょうだいで遊んでました」

宮本信子さん「ほら、これですよ。お父様の手描きのカルタ」
宮本信子さん「ほら、これですよ。お父様の手描きのカルタ」

時代や社会を鋭く見つめる視点は衰えない

長引く闘病生活の中でも、万作は常に社会を鋭く見つめ続けた。

そして、1946年、終戦の翌年に一つの文章を発表する。

宮本信子さん:
「やっぱり『戦争責任者の問題』。これはもう素晴らしい文章でもうドキッとしますけど」

【『戦争責任者の問題』より】
“さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない”

“『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによって、だまされ始めているにちがいないのである”

宮本信子さん:
「どうしても言っておかなければいけないって思って、伊丹万作はしっかりお書きになったんでしょうね。これこそ大事にしなくちゃいけない問題だって」

終戦の翌年に一つの文章を発表する
終戦の翌年に一つの文章を発表する

万作は8年の闘病生活の末、この世を去る

1946年9月21日、万作は8年の闘病生活の末、この世を去る。

メガホンをとった作品は22本だった。

テレビ愛媛 土居寛親アナウンサー(当時):
「(映画「お葬式」が)『キネマ旬報』1984年度ベストテンの第一位、これはうれしいですね」

伊丹十三:
「うちの親父の映画はねえ、4回ぐらいのってるんですけど、4位と5位なんです」

アナウンサー:
「抜いちゃったわけなんですね」

伊丹十三さん:
「抜いたわけじゃないですよ。たまたま今年はそういうめぐりあわせだっただけの話でね」

子煩悩な伊丹万作さん
子煩悩な伊丹万作さん

「私、絶対よろこんでいると思った」

夫のデビュー作が成功したあの時のことを思うと、宮本さんは今でもうれしさを隠せない。

宮本信子さん(2026年インタビュー):
「お父様を乗り越えたのねっていう感じで、うれしかったんですけどね。お父様(伊丹万作)も喜んでくださると思ってましたから私、絶対よろこんでいると思った」

ただ、十三本人は当時、カメラの前でシャイな雰囲気で思いを語っている。

伊丹十三:
「うちの親父の「赤西蠣太」なんて映画は本当にいい映画で。全然(父を)抜いたなんて思ってませんけれど。歳だけは抜きましたけど。親父が死んだ歳よりもう5歳ぐらい抜いちゃったんですよ」

宮本信子さん:
「でもこれから、まだまだ」

新人監督としてこれからの活躍に期待
新人監督としてこれからの活躍に期待

十三も10本の作品を残し、この世を去った

そんな伊丹十三も、時代を鋭く切り取った10本の作品を残し、1997年に亡くなった。

享年64歳だった。

宮本信子さん:
「やっぱりその親にしてその子ありですよ。どこか皮肉っぽくて、どこかくすって笑って。笑いが好き、そういうのってあるんじゃないですか」

十三は万作の死後、松山に移り住み、多感な青春時代を過ごしたあと、商業デザイナーや俳優、CM作家などを経て、父と同じ映画監督となり、多くの人の記憶に残る映画を世に送り出した。

彼の人生は、偉大な父・万作の背中を常に追い続けた日々なのかもしれない。

偉大な父の背中を常に追い続けたのかもしれない
偉大な父の背中を常に追い続けたのかもしれない
テレビ愛媛
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