タイで毎年行われる「徴兵くじ」に、異変が起きている。
志願者の増加により、くじが行われないケースも出るなど、制度に変化の兆しが見えているのだ。
背景には、待遇改善や経済状況、国境情勢の影響があるとみられる。
「赤か黒か」で人生が決まる徴兵制度
「うおぉぉ…!」
歓声とどよめきが交錯する会場。
その場は、宝くじの抽選会かライブ会場のような熱気に包まれていた。
しかし、ここで行われているのは、人生を左右する「徴兵くじ」である。
タイでは毎年4月、全国各地で徴兵検査が行われる。
対象は原則21歳の男性で、大学生など、これから社会に出る若者たちも含まれる。
彼らの運命を分けるのが、「くじ」だ。
引いた紙の色によって、兵役に就くかどうかが決まる。
赤なら2年間の兵役、黒なら免除となる。
その重さゆえ、これまでは結果に絶望し、気を失う人が出ることもあった。
「くじで人生が決まる」そう言われてきた所以である。
「くじを引かない日」も…
4月9日、バンコク近郊・ノンタブリー県の会場には、約680人が集まった。
この日の募集枠は103人だった。
そのうち39人が志願で埋まり、残る64人分をくじで選ぶことになった。
身体検査などの末、くじの対象となった若者は215人。
約3人に1人が徴兵される計算で、決して低い確率ではない。
この会場の募集は数日間に分けて行われたが、志願者だけで定員が埋まり、くじの実施に至らない日もあったという。
徴兵の象徴ともいえる「くじ」が、不要になるケースが出てきているのだ。
志願者は過去最多の水準に
過去を振り返ると、志願者数はこの数年で増加傾向にある。
タイ国防省によると、2021年から志願者の数は年々増え、2025年は4万6623人と過去最多を記録し、徴兵に必要な半数以上を志願で賄うまでになっている。
徴兵の志願者数
2021年:3万8135人(36.1%)
2022年:3万8583人(45.2%)
2023年:4万599人(41.3%)
2024年:4万2260人(47.8%)
2025年:4万6623人(52.8%)
※()内は徴兵に必要な数のうち志願者で占める割合
徴兵はもはや“運任せ”ではなく、「自ら選ぶもの」へと変わり始めている。
なぜ志願する?背景に「国境」と「現実」
では、なぜ若者たちは志願するのか。
取材に応じた若者はこう話す。
「国境情勢もあり、自分も力になりたい」
タイではカンボジアとの国境をめぐる緊張が続いており、安全保障への意識の高まりがうかがえる。
一方で、より現実的な理由もある。
給与はいくら?「安定した職業」としての兵役
タイ陸軍によると、徴集兵の月収は、
基本給1630バーツ、生活費補助6490バーツ、日当2880バーツで、
合計約1万1000バーツ(約5万円)となる。
食費(1日70バーツ程度)などが差し引かれ、
実際の手取りは約8000~8900バーツ(約4万円)となる。
タイの初任給(1万5000~2万バーツ程度)と比べると水準は低いが、
住居や医療が無償で提供されるほか、生活費の負担が抑えられる点が特徴だ。
さらに、軍での継続勤務や、下士官学校への進学など、将来の選択肢につながる面もある。
景気低迷が続く中、
「安定した収入」と「将来の選択肢」を求めて志願する若者が増えているとみられる。
また軍は、待遇や福利厚生の改善に加え、
オンラインで応募できる制度の導入により、「志願のハードルが下がっている」と説明している。
さらに、くじで決まる兵役は2年間だが、志願の場合は条件によって半年から1年ほど短くなる。
「より早く社会に戻れる」という点も、若者の選択に影響しているようだ。
「昔はくじ」父親世代が語る変化
かつて徴兵を経験した父親世代からも、変化を実感する声が聞かれた。
「自分のときはくじでしたが、今は志願する人が増えています。待遇も昔より良くなっています」
また、志願した息子を見送る母親はこう話す。
「本人が決めたこと。誇りに思います。強くなってほしい」
徴兵に対する家族の受け止めも、変わりつつある。
歓声と緊張が交錯するくじ引き会場
一方で、くじ制度は今も徴兵の根幹にある。
くじを引く若者の多くは兵役を避けたいと考えており、黒が出れば安堵の声が広がる。
一方で、赤が出ることで徴兵枠が埋まるため、結果に関わらず、会場はどよめきや歓声に包まれる。
くじを引く瞬間、会場の空気が張り詰める。
担当者の手元に視線が集まり、紙が開かれた瞬間、歓声が弾ける。
黒を引いた男性は「とても安心した」と笑顔を見せた。
一方で赤を引いた若者は、「本意ではなかったが、受け入れて国に尽くす」と淡々と語った。
かつてのような強い落胆ではなく、現実を冷静に受け止める姿が目立った。
「くじの国」はどこへ向かうのか
志願者の増加により、将来的に「くじに頼らない徴兵制度」への移行も議論されている。
ただ現時点では、志願だけで必要人数を満たすには至っていない。
志願増が一時的な現象なのか、制度の転換につながる動きなのか、今後の動向が注目される。
それでも、かつて“運命を決める儀式”だった徴兵くじは、いま、その意味を変え始めている。
「くじで決まる徴兵」から「自ら選ぶ兵役」へ。
会場の熱気の裏で、兵役をめぐるタイ社会の価値観は変わり始めている。
