沖縄本島北部、名護市の東海岸に位置する辺野古。普天間基地移設の象徴として全国に知られるこの地で、41歳の区長・德田真一さんが静かに地域の未来に思いをはせている。
德田さんは「基地問題に揺れる地域」としてではなく、それ以前に地元の人々がずっと暮らしと営みを続けている土地としての辺野古を見つめている。
辺野古からリーダーになれる人材を

辺野古区の相撲場で、まわし姿の小学生たちが土俵に上がる。指導する德田さんは、相撲だけではなく、公民館で学習塾や習字、そろばん教室も開いている。德田さんが尽力するのは、この地域で育つ子どもたちの未来のためだ。
「辺野古も名護市ではあるんですけど、車で20分以上かかるんですよ。そんな中で地域で育てて、将来どこに行ってもリーダーになれる人材育成をしたい。いつの日か、辺野古に恩返しできる子どもも出てくると思うので」(德田さん)

区民約1100人の辺野古区は、地域の8割を米軍基地が占めるため、若者が戻りたくても住める土地が少ない。定住促進は切実な課題となっている。
伝統行事も基地問題も考えて引っ張っていく

德田さんが区長に就任したのは2025年4月。名護市内で飲食店を経営しながら、区の青年会長や行政委員を歴任してきた経験を活かし、地域のかじ取りを担うことになった。
区長を志したきっかけは、新型コロナウイルスの流行だった。地域の活気が失われていく中で、自分たちの世代が辺野古を支えなければならないと痛感した。
「若者の声をしっかり聞いて、先人がつないできた伝統行事もヘリポート問題も、我々が考えていかなければならないので、みんなを引っ張っていけたらと」

辺野古区には特別な結束力がある。大綱引きや村踊りといった伝統行事では、区民が総出で参加し、離れて暮らす人々も辺野古に帰ってくる。「一つの字でこれほどの催しができるのは誇らしいこと」だと德田さんは語る。
「伝統を守って、未来を作る強い覚悟があっての区長という職に就きたい」
辺野古移設が進む中でも「日常」は続いていく

幼いころから相撲に打ち込んできた德田さん。中高生の頃、地元がにわかに騒がしくなった。
「ニュースでよく辺野古が出てるなと思っていましたが、当時は相撲一筋で周りが見えてなかったんですよ。高校の時、帰ってきたら反対活動家の人がいたりして」

30年前、普天間基地の返還条件として辺野古移設が示された。国策に揺れる中で「辺野古」という地名は、移設問題の‟代名詞”として全国に知られるようになった。
県外移設を訴えた政権が辺野古に回帰し、移設阻止を掲げる名護市長や県知事が誕生して国と県が対立を深める中でも、辺野古では工事が進み続けた。

「そこで生活している我々がいて、反対運動も含め、いつもの辺野古が辺野古じゃない雰囲気があった」(德田さん)
激動の最中にあっても、伝統を守りながら暮らす人たちの日常は途切れることがなかった。
生活者として、現実を受け止めながら進む道

2026年1月、沖縄を訪れた小泉防衛大臣と久辺3区の区長らが面談した。德田さんは3区を代表して、引き続き地域の振興・発展への支援を求めた。
この席で、沖縄高専に近いヘリパッドの閉鎖を日米で調整していることが伝えられた。騒音が激しいこのヘリパッドの移設は、辺野古区が移設を容認する条件として求めてきた13項目の一つだった。
「喜んで基地に来て欲しいという人はいないと思うんですね。国策として進められる中で、区として過度な要求ではないと思っています」(德田さん)

この30年間、繰り返し問われてきた普天間基地の辺野古移設の是非。物価高を背景とした1月の名護市長選挙では、辺野古移設は最大の争点とはならなかった。2月8日に行われた衆議院選挙の結果を、德田区長は静かに見つめていた。
「歴史上最多議席には、正直驚いています」
国政の表舞台では「辺野古移設ストップは現実的ではない」という発言も聞かれるようになった。大きな政治の動きの中で一貫して変わらないのは、辺野古に暮らす人たちの日常がそこにあるということだ。

德田区長は、基地問題を抱える地域で生活する一人として、その現実を受け止めながら前に進む道を探し続けている。
人々が生きる故郷としての辺野古

「辺野古は人が住む街であって、基地の街ではない」(德田さん)
基地負担軽減を含め、振興策もある中で前に進めていってほしい。德田さんの願いはこれ以上なく明確だ。子どもたちが育ち、伝統行事が息づく辺野古で、区民の暮らしを少しでも良くしたい。
基地の街ではなく、人々が生きる故郷としての辺野古の現在と未来を、德田さんは見つめ続けている。
沖縄テレビ
