11月6日に「越前がに」の今シーズンの漁が解禁となった。いまでは福井が全国に誇る冬の味覚の王者だが、実はとれすぎて「おやつ代わりだった」時代も。なぜ、福井でカニが特産物になったのか…その歴史をひも解いた。
解禁初日の出漁は3年ぶり
11月6日、越前がに漁解禁のこの日は毎年、福井県民はソワソワする。今では高級品で地元民でもなかなか食べられないとはいえ、今年はどれだけとれているのか…値段はどうなのか…気になってしまうのだ。
6日午前11時半過ぎ、越前町の漁港では、昨夜遅くに出漁した船が次々と戻ってきた。
出迎えた漁師の家族らも総出で、カニの脚に越前がにブランドの証しである黄色いタグが取り付けられていく。
漁師は「天気は最高でベタ凪だったね。漁獲量も比較的あったから良かった」と笑顔を見せる。実は、初日に漁に出られるのは3年ぶり。ここ数年は海がしけて漁に出たくても出られなかったのだ。
午後2時半ごろには初競りが始まり、威勢のいい掛け声が市場に響いた。
東京・銀座のカニ専門店の担当者も訪れ「越前がにの甘さは格別!日本一のカニ」と評していた。
昭和の頃、カニは「おやつ代わり」
越前がにの歴史を振り返ると、昭和時代の水揚げは現在と比べ物にならないほど多かったという。
昭和40年代の競りの映像には、木箱いっぱいのカニが映し出され、漁港の活気が伝わってくる。
昭和39年の漁獲量は、現在の2倍以上にあたる1000トンを超えていた。
当時の思い出を街の人に聞くと―
「浜の方から売りに来ていて、セイコガニをおやつ代わりに食べた」(70代・福井市)
「そうそうそう、おやつだった。今でこそ食べられないけどね」(80代・あわら市)
年配の人から聞かれたのは「カニがおやつだった」というエピソード。いまほど特別なものではなかったようだ。
しかし、昭和の終わりにかけて漁獲量は急激に減少。昭和54年には過去最少の210トンとなった。
江戸時代から特産、明治から皇室献上
「越前がに」の歴史をひも解く鍵は、江戸時代の「福井の特産物」をまとめた書物、越前国福井領産物(1735年松平文庫・福井県文書館保管)にあった。「蟹」の欄には「ずわいがに」の文字が記されている。
漁場が近く、江戸時代の中期にはすでに福井の特産品になっていた。ただ“入手しにくい時もある”との注意書きもされていた。
明治時代からは、全国で唯一、皇室へカニを献上している。
明治42年に時の皇太子が福井を訪れた際、当時の福井県知事がこう言ったという。
当時の知事・中村純九郎氏:
「福井のカニは大変おいしい。漁の時期になれば献上します」
以来、太平洋戦争の終戦前後の3年間(昭和19年から21年)をのぞく毎年、越前がにの献上が続いている。
平成からブランド化が本格化
平成に入ると、ブランド化が本格的に進んだ。
県水産課の頼本華子参事によると、平成元年に県の魚として「越前がに」が指定されたという。平成9年には、全国に先駆けて越前町漁協がおなじみの“黄色いタグ”を付け始めた。「他の産地との差別化が一番の目的。黄色いタグは“越前がに”だと全国的に広く認知されるようになっていった」(頼本参事)
漁業者も協力し資源保護へ
また、資源保護の観点からも先進的な取り組みがスタートした。
福井県で開発された、その名も「越前網」は、禁漁期間にかかってしまうカニを減らすための特殊な網。さらに、漁期を短縮したり水揚げできるサイズを制限したりと、独自のルールも設けた。
「福井の漁業者はすごく意識が高く、越前がにを守るという誇りを持って取り組んでいる。その甲斐もあって、近年では400~500トンの漁獲量を維持できている」と頼本参事。
5年前からは、専用アプリを使った資源保護をスタート。漁業者から漁場ごとのデータを収集し、成長していないカニを取らないようリアルタイムに発信・共有する仕組みも進んでいる。
「昭和の時代は、資源管理の考え方はなく、とれるだけとっていた。資源量を考えながら今後も継続して資源管理の取り組みを続けていく」(頼本参事)
資源保護活動の結果もあり、去年の漁獲量は511トンにまで回復。漁獲金額も過去最高の約25億2700万円を記録した。
恵まれた漁場と先進的な取り組み、さらに漁業者の努力で守られてきた「越前がに」。
今年も、雄のズワイガニが来年3月20日まで、雌のセイコガニが12月31日まで漁が行われる。
