「私は、年齢を言われるのは心外なんですよ!」

彼女は笑いながら答えたが、質問した私は、冷や汗をかきながら謝った。失礼極まりないが、記者として年齢を聞かざるを得ない理由があった。その相手は、高知初の女性弁護士・藤原充子さん、96歳。今なお、現役の弁護士として法廷に立ち続ける。

取材当初、記者の質問をたしなめる藤原さん
取材当初、記者の質問をたしなめる藤原さん
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弁護士活動57年を迎えた。社会問題となった整腸剤による薬害『スモン病訴訟』、工場の廃液による公害訴訟『高知パルプ生コン事件』、戦争に翻弄された中国残留日本人訴訟など1000を超える裁判を担当した。

「社会的弱者を法で救いたい」。弁護士としての原点は、80年前、炎に包まれた故郷の風景の中にあった。

原点は焼け跡に生まれた“問い”

1929年(昭和4)神戸市須磨区生まれ。15歳の時、学徒動員先の軍需工場に突如、B29が飛来してきた。

女学校時代の藤原さん
女学校時代の藤原さん

「焼夷弾をボンボン落とし、工場が次から次へと火を噴いた」
「すぐそばに弾が落ちた。命はないなという感じ」

1945年の神戸大空襲で街は焦土と化し、犠牲者は7000人以上に上った。恩師も爆弾に身を砕かれた。

戦後80年の年に神戸を訪れた藤原さん
戦後80年の年に神戸を訪れた藤原さん

「仇をばいかに討たん」。

焼け跡に立った少女は、その時の思いを書き残していた。

藤原さんの書いた詩「爆弾に身を砕かれし 師の君の 仇をばいかに討たん」
藤原さんの書いた詩「爆弾に身を砕かれし 師の君の 仇をばいかに討たん」

熱心な軍国少女だった。太平洋戦争が始まった時、大人たちは「万歳」と叫び、小学校では「アメリカ兵をやっつけるには突けー!」と、なぎなたを振り回す日々。「軍国主義、教育がそうなっているから抵抗も反抗もできない」それが、当たり前だと信じていた。

しかし、1945年8月15日に終戦を迎えると、すべてが変わる。教わってきた軍国主義は悪とされ、教師たちは手のひらを返したように自由と民主主義を賛美し始めた。女学校の教科書は、黒塗りで占められた。

藤原さんは当時の自分を「軍国少女だった」と振り返る
藤原さんは当時の自分を「軍国少女だった」と振り返る

「子供の頃に教わった教育の価値観が変わった。180度転換」
「だまされてきた。何を信じたらいいのだろうという気持ち」

終戦後の価値観の転換によって、強烈なまでの不信感と虚無感に襲われた。

「国のために命を捧げよ」と教え、多くの命を奪ったあの戦争は、一体何だったのか。信じていた正義は、なぜこうも簡単に崩れ去るのか。

藤原さんの書いた詩「人間とは何か 教育とは何か 真実とは一体何なのか 学ばなければならないのだ」
藤原さんの書いた詩「人間とは何か 教育とは何か 真実とは一体何なのか 学ばなければならないのだ」

「人間とは何か、教育とは何か。真実とは一体何なのか。学ばなければならないのだ」。故郷の焼け跡で生まれたこの痛切な“問い”に、藤原充子は人生をかけて向き合うことになる。

高知初の女性弁護士に

終戦の翌年、彼女は神戸経済大学(現・神戸大学)に入学した。しかし、卒業後に就職した銀行で、彼女は社会の理不尽な壁にぶつかる。

大学に入学した藤原さん
大学に入学した藤原さん

当時、女性の仕事は「お茶くみと雑用係ばっかり」。さらに「定年も女性の場合は25歳。結婚したら辞める。そういうルールだった」。憲法には男女平等が謳われているのに、現実はあまりにも違った。

「お茶くみと雑用係ばっかりだった」銀行員時代
「お茶くみと雑用係ばっかりだった」銀行員時代

労働組合の副委員長として女性の権利を訴えるも、限界があった。情熱だけでは、社会は変えられない。「法を勉強しなければ、人を説得もできないしリーダーにもなれない」。

司法試験への挑戦を決意した藤原さん
司法試験への挑戦を決意した藤原さん

決意は固かった。10年勤めた銀行を退職し、神戸大学大学院の法学研究科へ進学。1日10時間の猛勉強をすること4年─。36歳の時、司法試験に合格した。

司法修習生時代に知り合った高知出身の藤原周弁護士と結婚
司法修習生時代に知り合った高知出身の藤原周弁護士と結婚

司法修習生時代、高知出身の藤原周弁護士と出会い、結婚した。1968年、高知市に移住し、夫婦で法律事務所を開設。高知初の女性弁護士が誕生した。

「中国残留日本人訴訟」の高知原告団長に

彼女のキャリアを象徴する裁判がある。2003年に提訴した中国残留日本人による国家賠償訴訟だ。1931年の満州事変以降、多くの日本人が国策によって満州に渡った。しかし、ソ連軍の侵攻と終戦の混乱で、多くの子供たちや女性が中国に取り残された。彼らは帰国後も日本語の壁や差別、貧困に苦しんでいた。

高知原告団の弁護団長を務めた
高知原告団の弁護団長を務めた

藤原さんは、この裁判を「普通の日本人として生きるための権利回復のための裁判」と位置づけ、高知の原告団長として4年半に及ぶ裁判をほぼ無報酬で戦った。それは、彼女にとって宿命でもあった。

「殺せー!と言って、竹やりもって突撃する教育を受けている。私は軍国少女だった」。戦争の被害者である残留日本人の苦しみを知ることは、軍国少女だった過去の償いでもあったのだ。

96歳の“答え”…私がここにいる理由

96歳を迎えた今も、藤原さんの闘いは終わっていない。この日、彼女は、膨大な裁判資料を手書きで作成していた。「パソコンにはついていけない。それも私の生き方」と静かに笑う。

スイーツが好物だという藤原さん
スイーツが好物だという藤原さん

依頼人は宗教団体の元信者の女性で、精神的に不安定な状態のときに、教団に1000万円近くを献金してしまったと言う。「特定の宗教団体の金儲け主義がだんだんはっきり分かってきた」。

彼女の眼差しは、今も社会的弱者に向けられている。80年前、焼け跡で生まれた「真実は何か」という問い。彼女は、ひたすら、目の前の依頼人に寄り添い、法廷で闘い続けながら、その答えを探してきた。

96歳の今も法廷で戦い続ける
96歳の今も法廷で戦い続ける

「真実を追求する志を最後まで貫きたい。それが私の弁護士像」

その言葉は、彼女が96年の人生をかけて見つけ出した、一つの「答え」なのだろう。共に法律事務所を開いた夫の周さんは、2004年に他界。夫と根を張った高知で人生を全うしたいと話す。そして、今を生きる私たちに静かに問いかける。

「真実を求めるのが人間の生き方ではないか。この世に生まれてきた責任」

取材:玉井新平(高知さんさんテレビ)