香港では反政府活動を取り締まる国家安全維持法が6月末に施行され、社会に様々な締め付けが強まる。教育や出版への影響に危機感を抱く元教師が語る。

「私達は香港人と教えるな」?社会問題を議論する授業の制限への危機感

楊子俊さん(30)は、“通識課(=リベラルスタディーズ)”という授業が専門の高校教師だった。通識課は、中国や香港の政治や社会の問題を議論し、批判的思考を身につける授業で、人権や民主など中国本土では扱われづらい内容もテーマにする。2009年から高校の必修科目となり、若者の社会への関心や意識を高めてきた。楊氏は「生徒に自身が暮す世界を理解させ、責任ある市民になってもらう授業です」と強調する。

楊子俊さんが執筆した通識課の参考書「生徒に責任ある市民になって欲しい」
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楊子俊さん執筆の通識課参考書より。生徒は社会や政治など幅広い問題を議論し理解を深める。

しかし2019年、刑事事件の容疑者を中国に移送出来る逃亡犯条例改正案への反発で抗議デモが激化。多くの若者が参加し、多数の逮捕者が出た。中学生や高校生も集会をしたり人間の鎖を作ったり、学校の内外で抗議した。

通識課の授業が若者をデモに駆り立てる?(2019年の抗議デモより)

親政府・親中国派などは、この通識課の影響で若者がデモに参加し問題を起こしていると批判を強めた。「若者は脳が壊れている」とまで言い放つ親中派市民もいる。初代行政長官の董建華氏も「失敗だった」とコメントし、教育当局が授業内容を制限し始めたという。

教育当局は、2019年、出版社から教科書の任意提出を受け助言を行う組織を作り、教科書の審査を行った。2020年8月、審査を終えた通識課の教科書の改訂内容を発表した。香港メディアによると、2014年の民主化運動・雨傘運動や、市民の不服従などに関する記述が“教育上の必要性“を理由に削除された。

教職員の団体・香港教育専業人員協会は、「助言の範囲を超え、政治的検閲の疑いがある」と反発。「政府は、教科書の質を高め科目の目標を達成するために助言するのが目的と言いながら、政治的志向に焦点をあて社会的現実を軽視しゆがめている」と批判した。その上で「改訂理由の説明がなく、出版社や教師の自己検閲が増えるだろう」と懸念を表わした。

これに関し、中国国営の新華社通信は「通識課の教材の“消毒”は香港の教育を是正する重要な一歩」と題する論評記事を掲載した。

楊氏は、教育局による教科書の内容制限の中でも、問題とされる例を説明した。

楊氏「教育当局は“私達は香港人だ、と教えるべきではない”と言います。“私達は中国人で、香港人ではない”と言うのです。世論調査では、多くの香港人、特に若者は、“自分は香港人で中国人ではない”と考えていますが、当局はそれを認めたくない。みな中国人と信じさせたいのです」

「中国脅威論というテーマは、”ナンセンスだ、中国は脅威ではないのにどう議論するのか”となるのです。」

「自分は香港人」と教えてはいけない・・・?

楊氏は、こうした制限は、教育やメディアなどを通し人々をコントロールしたい中国共産党の考え方だと言う。通識授業では、アメリカのキング牧師の公民権運動やインドのガンジーの運動、香港の雨傘運動など歴史的な人権活動についても議論する。しかし、政府からすると危険だから知らせてはいけない、だから削除、となると分析する。

楊さんは2019年6月、政府本部周辺の抗議デモに参加し、警察の催涙弾を右目に受けただけでなく、暴動罪で逮捕された。右目の視力はほとんど戻っていないという。

楊子俊さんは政府本部前のデモに参加し催涙弾を右目に被弾した(2019年6月)

デモ参加が理由かは不明だが、楊さんは、通識課の授業時間の削減を理由に、9月の新学期からの契約を更新しない、と学校から告げられた。

それでも楊さんは「自分は今も教師です。教科書の出版などを通して教育に貢献したい」と話す。多くの若者の情報源がインターネットで、デモ支持者ならそちらの考えだけを見て一方的な考えに偏り、自分とは異なる考え方を知らないままになることを懸念している。その上で、黄色(デモ支持)と青色(政府支持)に分断され深刻な対立が続く今の香港では特に通識教育は重要だと強調する。

楊氏「学校での議論を許し、生徒に両方の考え方を教えることが香港の問題を理解する、より安全な方法です」

抗議デモに関する書籍出版で“NGワード”を自己検閲も

楊さんは仲間と運営している独立系の出版社でも、問題に直面した。今年7月にデモの記録をまとめた本の出版を予定していたが、国家安全維持法の施行で修正を余儀なくされたのだ。

本の表紙には元々“光復香港”というデモのスローガンがあったが、事前に一部を削除。本文でも「革命」は抗争や運動、「反中国共産党」は反独裁権力に言い変え、「独立」や「民族」という言葉を削除した。本の印刷は6つの業者から断られたが、7軒目がようやく密かに印刷してくれたという。

出版したデモに関する本の表紙からスローガン(光復香港)の一部を削除(丸の中の空欄)

国家安全維持法は、国家分裂や外国勢力との結託、政権転覆、テロ活動の4つが処罰対象だ。施行後の抗議デモでは、「香港独立」と書いた旗を掲げた人が逮捕された。“光復香港・時代革命”のスローガンも違法とされる。何が違法とされ、どこまで影響があるかがはっきり分からず、仲間を守るため自主規制せざるを得なかったという。

楊氏は、国家安全維持法施行前から、通識課の授業から“危険な”内容は削除され始め、法の施行後には大丈夫なはずの内容まで削除されつつあると指摘する。例えば、“中国が他国に及ぼす安全保障の脅威”というようなテーマは学術的なもので、個人の信念とは次元の違う問題のはずだがそれも削除されてしまう。彼らはレッドライン(超えてはいけない一線)をどんどん動かし、議論する場がなくなっていく、と批判した。

楊氏「今年、国家安全維持法で学校は影響を受けるでしょう。あらゆる議論が許されない。香港人の民族自決や香港独立は学校ではすでにタブーです。教師は何も言えないのです」

楊子俊さん「今年、国家安全維持法で学校は影響を受けるでしょう。あらゆる議論が許されない。教師は何も言えないのです」

香港独立を授業で扱った小学校教師が資格取り消しに・・・今後は罪に問うと警告も

2020年10月、教育当局が小学校教師の教師資格を剥奪したと発表。2019年9月、小学5年生の授業で、生徒に香港独立を主張する活動家が出演したテレビ番組を見せ、「言論の自由がなくなれば香港はどうなると思うか」「香港独立を訴える理由は何だと思うか」などの意見を書かせたことが理由だ。ほかに、チベットや台湾、新疆ウイグル自治区の独立に関しても取り上げたとしている。

香港独立を扱い処分されたのは初めてとされ、教師は離職した。当局は「計画的に独立のメッセージを広げ、非合法な組織を紹介したもので問題だ」と批判。今回は国家安全維持法施行前なので警察に報告しないが、今後、同様の行為をどう扱うかは関係当局と議論するとし、罪に問われる可能性があると“警告”した。

メディアは、教育現場の萎縮効果につながると批判の声を伝える。林鄭月娥(りんていげつが)行政長官は支持を表明し、違法なイデオロギーが教育に浸透することは許さないと強調した。

10月1日の建国記念日を前に中国政府の出先機関のトップはスピーチで「愛国は選択ではなく義務であり正しい道だ」と強調。香港ではすでに中国国歌の侮辱を禁止する条例も制定され、中国政府はさらに香港への愛国教育を推進していくだろう。

民主的で自由な教育の元で広い視野を身につけ、自分の考えを持ち表現することが当たり前だった香港の人々に、“中国式教育“を押しつければ反発は必至だ。10月1日の抗議デモでは、警察の強硬姿勢が増す中でも「香港独立」や「光復香港・時代革命」を叫ぶ人がいた。しかし、抗議が難しくなっているという無力感もあると感じる。香港の学校は、子供達の未来を憂う教師の思いをよそに、息苦しい場所に変化している。

若者らの抗議活動も抑え込まれ拘束される(10月1日の抗議デモより)

【執筆:FNN関西テレビ(前上海支局長) 城戸隆宏】