沖縄戦では、20万人以上が犠牲になった。そのなかで、北海道出身の死者数が沖縄県民に次いで多かったことは、あまり知られていない。さらに、そのうち少なくとも43人がアイヌ民族だったといわれている。
彼らは差別を受けながらも、「日本兵」として戦場に送り出された。しかし、いまなお誰一人として遺骨は見つかっていない。
彼らの痕跡を、沖縄の暗い洞窟(ガマ)で探し続ける一人の青年がいる。札幌出身でアイヌ民族にルーツを持つ宮田士暖(しのん)さん(20)だ。
「なんとか故郷に返してあげたい。足跡も記録として残したい」。自らのアイデンティティーに向き合いながら、戦争の記憶をたぐる旅を追った。
故郷では隠していたルーツ「面倒なので避けていた」

宮田さんは東京学芸大学の2年生。現在は実家を離れ一人暮らしをしている。曽祖母がアイヌの家系だというが、札幌にいたときは偏見やいじめを恐れ、友人にも自身のルーツを話すことはなかった。
「小学生のとき、差別的な発言を繰り返し『アイヌは土人だ、劣った民族だ』と騒ぎたてる子がいました。正直、面倒だったんです」
家族の間でも戦争やアイヌが話題に上ることはほとんどなかった。「自分の中でタブー」とする意識が強かった。

転機は2年前の大学進学だった。自らのルーツに誇りが持てるようになった。
「東京では先住民族のアイヌとして興味を持ってもらえるんです。差別もありませんし、安心してルーツを語れるようになりました」
次第に民族の歴史に自身も興味を持てるようになった。ただ、過去をさかのぼっていくと、戦争の悲惨さに憤りが抑えられなくなったという。
さらに、アイヌ文化の伝承者で知られる多原良子さんが沖縄で遺骨収集に参加したことを報道で知り、強い関心を抱いた。
「アイヌの先人が沖縄にいたのは自らの意思だったのか、それとも強制されて行かされたのか。記事を読んで、アイヌと戦争の関わりを深く考えるようになりました。どうしても自分も関わりたいと思ったんです」
思いに突き動かされた宮田さんは、すぐに遺骨収集ボランティアへの参加を申し出た。
「アイヌ兵士5人が眠っている」真っ暗な洞窟で捜索

ことし3月、宮田さんは沖縄戦最大の激戦地となった糸満市国吉を訪れた。遺骨収集に参加するためだ。
遺骨収集には、新聞社に勤めていた浜田哲二さん(62)と、妻の律子さん(60)が帯同してくれた。2人は多原さんの記事を書いたジャーナリストで、25年以上、遺骨収集のボランティアに携わっている。

3人は、戦時中に自然の防空壕として使われた「ガマ」と呼ばれる小さな洞窟に足を運んだ。ここでアイヌの兵士5人が戦死したとの証言があった。
「家族が待つ故郷に帰れなかったアイヌの遺骨を見つけたい」。真っ暗で湿った狭い洞窟で、宮田さんはクマデを手に遺骨収集に臨む。その傍らで、浜田さんは黒ずんだ壁面を指さした。
「黒くなっているのは焼かれた跡で、アメリカ軍が投げ込んだ手りゅう弾か砲弾の破片。これが大激戦地の証しさ」
当時、この地域にはうっそうとした緑が広がっていたとされている。アメリカ軍はそれを火炎放射で焼き払い、日本兵が潜んでいると判断した洞窟に手あたり次第砲弾を浴びせ、手りゅう弾を投げ入れた。

宮田さんは足元に落ちていた金属片を手に取り、浜田さんに見せた。「これは何かの弾ですか」。
「旧日本軍の小銃用の銃弾だね。ここに日本軍がいた証拠だよ」。浜田さんが答えた。
ここでは5年前、朝鮮半島出身の兵士のものとみられる飯ごうが見つかっている。
「日本国や和人に翻弄(ほんろう)されてきたのはいっしょ」。宮田さんは、いずれも日本兵として戦わされたアイヌと朝鮮半島出身者の境遇を重ねた。
アイヌ兵の遺族探したい 手がかりは2枚の写真
宮田さんは、北海道で新たな取り組みを始めた。沖縄で収集される遺骨とその遺族を結ぶため、DNA鑑定に応じてくれるアイヌの人を探すことにしたのだ。43人のアイヌ兵士の身元はこれまで一人も特定されていない。
「少しでも情報があると、遺骨の特定に役立つと思うんですよ。ご家族に会って、お話も聞きたいし」(宮田さん)
沖縄から駆けつけてくれたジャーナリストの浜田さんとともに、関係先を回った。

宮田さんたちは手がかりとなる写真を持っていた。
写っているのは諏訪野富雄さん(年齢不明)。北海道出身で旭川市を拠点にしていた第24師団に所属し、旧満州(現在の中国東北部)から沖縄に転戦した。沖縄県西原町棚原の塹壕(ざんごう)で戦い、突撃して戦死。遺骨は見つかっていない。
浜田さんが生き残った諏訪野さんの上官を取材したときに託されたものだった。

写真は2枚。1枚は出征時のもので、両手を後ろで組んでカメラを見つめ、朗らかさがうかがえる。満州で撮ったとされるもう1枚は頬がこけ、表情も険しく変わっていた。
戦地での過酷な体験が、わずか数年で一人の青年をこれほど変えてしまったのかと思うと、宮田さんは胸が締め付けられた。
「胸に勲章をたくさんつけていますが、眼光が鋭くまるでにらめつけているよう。アイヌとして差別を受けないように必死だったのかもしれない。相当苦労されていたのでしょうね」(宮田さん)
「ルーツ知られたくない」と遺族 同意をしぶる

8月8日、宮田さんは北海道伊達市にいた。
戦没者名簿に記されている諏訪野さんの住所を探すためだった。半日周辺を聞いて回ると、諏訪野さんの遺族の住まいが見つかり、おいと会えた。出征時の写真を見せると「同じものが家にある」と答えた。
おいは70代で諏訪野さんと会ったことは1度もない。宮田さんが説明する当時の状況に耳を傾けたが、遺骨の身元を特定するDNA鑑定を辞退。現地にあったビンなどから作ったガラス玉を遺品の代わりに渡そうとしたが、断られた。
「おじなのは確かですが、今さらそんなことを言われても。アイヌがルーツだと知られたくありません。自分のことは伏せてほしい」
やりとりはすべて軒先で終わった。
「アイヌであることを知られたくない。その気持ちはわかります。かつての自分もそうだったので」
宮田さんは自らを納得させるように、相手の言葉を受け止めた。
研究のテーマは「アイヌ民族と戦争」…語り部目指す

宮田さんはアイヌ民族と戦争をテーマとした研究を本格的に始めるつもりだ。今回の沖縄での遺骨収集から遺族探しまでの体験は、自分のルーツを深く見つめ直す旅でもあった。
「戦没者の足跡を残すことで、戦争が家族や地域と深くつながっていることを伝えたい。そうすることで、戦争は嫌だよねという思いを語り継いでいけると思うんです」
一方で、自分の無力さも痛感した。遺族に拒まれ、何も持ち帰ることができなかった現実。それでも諦めるつもりはない。
「これまで面倒で避けてきた自分のルーツ。逃げてきたことへの反省もあります。だからこそ、将来はシンポジウムを開いて、アイヌと戦争について語り部になりたい。自分の体験を通して、多くの人に伝えていきたいんです」
戦争を知らない若者が、自らのルーツと向き合いながら決意を新たにする。
(北海道ニュースUHB)