【不動産】MASSIVE SAPPORO(マッシブ サッポロ)はシェアハウス、民泊の運営代行、フロント無人型の宿泊施設の企画・経営など、先駆的な事業へのチャレンジで知られる。代表取締役の川村健治さんに、成長の原動力となった「ぼくちゃん、分かんない」経営について聞きました。BOSS TALK#107
――無人型のホテルとは?
「フロントにあるタブレットを使い、うちの全世界のメンバーがフロント役を務め、チェックインできる仕組み。現地に人を配置しません」
――子どものころ、どういったお子さんでしたか。
「小学1年から4年まで毎日、同じ友達と遊びを続け、その反省から、小学5年からは浅く広くつき合うようにしました。どのグループにも顔を出すので、どのグループからも、自分のグループの仲間ではないと思われ、居場所がありませんでした。高校2年の冬、中学時代の同級生と再会し、その友人の家に行くと、いろいろな高校の友達が集まっていました。居場所や親友ができ、自分の人生が明るく光輝くようになりました。居場所や親友の存在が人間を強くすると分かったのが自分の原点です」
睡眠を削って働く日々 目を掛けてくれた上司とのささいな行き違いで閑職に
――就職は?
「広告代理店志望でしたが、就職氷河期でもあり、かなわず、給料が高そうな健康医療器具の会社に入りました。うまくいけば1年目から年収3000万円も夢ではありませんでした。本当に死ぬ気で働いたのに、会社は厳しく、1年11カ月で解雇になりました。次はデザイナーズマンションの先駆け不動産ディベロッパーに転職し、上司にかわいがられ、うれしくて毎日、3時間睡眠で働きました。年収は2000万円を超え、5年間ほど勤めましたが、その上司と、ささいな行き違いで怒りを買い、たった1日で全部のプロジェクトから外されました。世の中、こういうものなんだと思いました」
――その後、どうされましたか。
「30歳のころ、上海に留学しました。本当に楽しかったです。授業をまじめに受けて中国語を勉強しますが、株式投資をしながら、学生とマージャンやカラオケで遊んでいました。人生で時間もお金もあるときは、そうそうありません」
――今の事業につながるものに出合いましたか。
「上海は大都会で、家賃が高く、3LDKに8人ほどが住んでいる話をよく聞きました。自分も寮生活で、楽しかったです。自分の次のビジネスにつながる経験でした」
――まさにシェアハウスですね。帰国後、すぐに始めたのですか。
「前職の元上司に誘われ、元上司の立ち上げた東京の会社に入り、2年間ほどオフィスビルのブランディングの仕事をしましたが、辞めることにしました。地元・札幌に帰って起業を考えたとき、シェアハウスを思い立ちました」
――道内にシェアハウスは当時、ありましたか。
「ありません。うちは始めて3年で、シェアハウスは9物件二百数十室に増えました。想定した倍のペースでしたが、あまり儲からず、経済的に厳しく、実家暮らしを強いられるほど。このままでは結婚もできないと思っていたとき、知り合いから、外国人が利用する民泊施設の予約サイト「エアビーアンドビー」を知らされ、シェアハウスの空き部屋の2部屋を載せました。1カ月の家賃3万、4万円の部屋の売り上げが20万円に達し、民泊を本格化させました。社員数はシェアハウス時代には1、2人でしたが、民泊を始めてからは5人、10人、30人、40人と、どんどん増え、売り上げは4年で20倍になりました」
コロナ禍の苦境 人員削減は考えず、経営改善に注力し高収益体質に転換
――コロナ禍でダメージを受けたと思いますが。
「しばらく苦しくても、必ず回復すると考えました。そのとき、主要メンバーがいなければ、仕事になりません。先輩の経営者、ぼくのことをすごく大切に思ってきてくれる人ほど『リストラして、経営者が鬼にならなければならない局面だ』と助言してくれましたが、言われれば言われるほど、リストラしない気持ちが強まりました。この事業に対する自分の覚悟を問う時間でした」
――人を減らさずに、どのように乗り切りましたか。
「コロナ前、会社は伸びていましたが、すべてが盤石だったわけではなく、脆弱な部分もありました。忙しいときは、忙しさと戦うのが精いっぱい。コロナ禍は改善すべき点をすべて改善できる期間だと位置づけました。例えば、コロナ前の売り上げがピークのときでも、実は3000万円の赤字。コロナが明けて、そのときの売り上げに回復すると、利益が3000万円出ました。業務改善によって同じ売り上げでも6000万円分の価値を生み出せるようになったのです」
――会社にとっては本当に必要な時間にしたのですね。今、力を入れて取り組まれていることは?
「展開エリアはコロナ前は札幌中心でしたが、道内をはじめ全国に広げることによって繁忙期の平準化を狙っています。都心部は今後、競合が激しくなれば飽和状態になり、稼働率も単価も下がります。そうした事態に備え、あまり競合しない地方の展開に力を入れています。無人ホテルであれば宿泊施設の空白地帯など、通常は出店できないエリアにも進出できます」
現場を信じ、すべて任せる「ぼくちゃん、分かんない」経営で社員の士気向上
――日本の課題である労働力不足にも一石を投じるビジネスですね。ボスとして大切にしていることを教えてください。
「民泊業界に身を置いて実感するのは進化のスピードが速く、私のレベルでは、もうついていけません。実際に現場が一番詳しいのです。社内で『ぼくちゃん、分かんない』と言いながら、ノウハウを吸い上げ、混ぜて現場に戻すという役割をしています。社員は社長には頼れず、自分でやるしかないと思っているでしょう」
――北海道での今の事業に関して、未来をどう展望されていますか。
「人気のある北海道は先人の方々が死ぬ気でつくってきました。次世代に良い形でつながなければいけない。来ていただいた外国人旅行者が、おもてなしの北海道を楽しみにしていたのに、期待外れだったら、その感情は消えます。宿泊施設の面から責任を持ちたいなと思います。日本全体の力になりたいと思っています」