大阪の淀川沿いにある、大空襲の慰霊碑。
消えない記憶と罪悪感を抱えて通い続ける人がいる。

■戦争時「ここで遺体を焼いた」 憩いの場所の悲しい記憶
淀川のほとりにある城北公園。早朝、訪れる人たちが手を合わせる場所がある。
(Q.手を合わせていた理由は)
手を合わせていた人:戦争中にいっぱい人が亡くなったので、体操終わって来るときには(拝む)。
手を合わせていた人:戦時中に機銃掃射を受けてね、多くの方が亡くなって、ここで(遺体を)焼かれて、塚を作られたと。
公園の横にある「千人つか」と刻まれた石碑。
この地域住民の憩いの場所は、悲しい歴史を背負っていた。

■避難する民間人も容赦なく犠牲に 公園で火葬されたのは1000人以上
80年前、大阪はアメリカ軍の空襲で、焼け野原と化した。
爆撃機・B29が100機以上来襲した大空襲は、3月から終戦前日までの間に8回。
そのうち6月7日の第3次大空襲では、市内北東部が狙われ、2700人以上の死者を出した。
軍事施設のある大阪を狙った作戦。しかし、銃口は逃げ惑う民間人にも容赦なく向けられた。
5歳の時に空襲を経験:この公園に防空壕があったんです。空襲警報が鳴ったら防空壕に入りに来た。親が連れてきたんですよ。堤防に逃げてきた人は、爆撃されてるから、ようさん死んでね。いつもここを歩いてね、きょうも来ましたと、ここへね。
5歳の時に空襲を経験した人は、「思い出すからね、やっぱり」と涙を流し、自身の経験を語った。
地域の避難場所だった城北公園に逃げてきた人たちも、機銃掃射や焼夷(しょうい)弾の犠牲となったのだ。
城北公園となりの淀川には、落下した爆弾の痕が“爆弾池”として残っている。
空襲の後、公園で火葬された人は1000人とも言われる。
「千人つか」は、その慰霊のために終戦翌年に建てられた。

■「千人つか」を守る人
毎朝「千人つか」を掃除する人がいる。船橋馨さん(88)。当時は8歳、姫路に疎開していた。
船橋馨さん(88):ぼくは(空襲を)直接は知らんのよ。定年して歩いているうちに、毎朝、参るだけでね。(千人つかを)世話している人が、だんだんと死んでいなくなったから。誰もおらんかったら、悪い思ってやってるだけで、私も『東浦さん』に会ってないから、詳しいことはよく知らんのよ。
(Q.『東浦さん』と面識は?)
船橋馨さん:先代の人は顔見たことあるけど、今の人はよく知らんのやわ。

■「戦争に賛同していた」「申し訳ない」消してぬぐえない思い
千人つかの説明に刻まれた「東浦栄二郎」さん。なぜ建てることになったか、息子・東浦榮一さん(96)に聞きに行った。
栄一さんは当時16歳。空襲の日は、近くの工場で働いていた。避難のため駆け付けた城北公園の光景は、脳裏に焼き付いている。
東浦榮一さん(96):公園に逃げてみたらね、先に逃げていた人たちが、機銃掃射によって肉片になってしまってた。もうバラバラで、肉片がいっぱい落ちてる。木の枝にひっかかってる。もうここで覚悟決めないかんなと思っていたら、警報解除といいますか、敵機が帰ってくれた。
そのあとで私の父親がね、やられたあとを始末をせなあかんので、堤防の中州へ死体を持っていきましてね。廃材で荼毘(だび)に付すというか、死体を焼却しまして、(死者が)約1000人だということで、『千人つか』と名前にして、家にあった庭石に、『千人つか』と書いて。
榮一さんも父が建てた「千人つか」に毎年手を合わせてきた。介護施設で車いすの生活を送るようになっても、欠かすことはない。
そこには、決してぬぐえない“ある思い”がある。
東浦榮一さん:亡くなられた方に対して、申し訳ないという思いがします。戦争目的に自分も賛同していたから。戦争して戦うんだと。そういう一念があったから。
(Q.戦争が良くないものとは考えてなかった?)
東浦榮一さん:考えてなかった。戦争だから、あくまで戦うんだということだけしか、考えてなかった。同じく戦ったらね、死ぬ時も同じでなければなりません。自分だけ助かって、うまいこといったなんて考えはできない。申し訳ないという気持ちとね、そのためにはご冥福をお祈りするしかない。

■あの人から80年 「きのうのことのようによみがえる」
2025年6月7日。あの日から80年。
(Q.きょう、きれいにしてますね)
船橋馨さん(88):きょうくらい(きれいに)しとかんと。
(Q.特にきれいにするんですか)
船橋馨さん:いつもこんなこと、やらへんよ。
「千人つか」に人が集まってくる。
船橋馨さん:人の命が亡くなるっていうのは、本当につらいこっちゃ。ハトやスズメでも心は通じるんやからな。人同士がなんで通じへんのよ。

東浦榮一さん(96)も「千人つか」に向かう。
東浦榮一さん(96):当日はもうちょっと晴れとったかな。暑い日でした。きのうのことのように、頭の中によみがえってまいります。
地域の法要は、コロナの影響で5年前に中止になって以来、営まれていない。
東浦榮一さん:ずっと千人つか法要は、続けていかないかんと思っています。なんとか風化しないようにね。

■「長生きせないかん」 戦争を知る人は年々減少 平和への願いをつなぐ
この日、戦後を一緒に生き抜いた高校の後輩たちが、榮一さんの元を訪れた。
戦時中の苦しみをともに味わった人は、年々少なくなる。
東浦榮一さん(96):ずっと生きてる限りやりたいと思います。あのときに命を落とした人の分まで、長生きせないかん。
後輩:そう!せなあかんで!
後輩:来年もな、来年もやで!
東浦榮一さん:はい、100まで生きます。
東浦榮一さん(96):96で、いい歳になって、若くして人生を終えられた方々とね、まもなくお会いできるでしょう。日本は再び戦争しないと、こういう国になりましたと、申し上げたい。
変わることがない戦争の歴史。
そこから生まれた「平和への願い」は消えることはない。
(関西テレビ「newsランナー」2025年7月8日放送)
