大阪から兵庫へと広がる阪神間。その中でも華やかな存在感を放つ宝塚。
今では全国的に「宝塚歌劇団」のイメージが強いこの街ですが、実は知られざる歴史と魅力がたくさん詰まっています。
■「ウィルキンソン」の炭酸水は宝塚発祥
宝塚で俳優の大東駿介さんが最初に学んだのは、あの人気飲料の発祥地についてでした。街を歩いていると、通りかかった親子連れが教えてくれました。
【街の人】「ウィルキンソンの炭酸水。柱が立ってます」
明治22年ごろ、ジョン・クリフォード・ウィルキンソン氏が宝塚で上質な炭酸水が湧き出ていることを発見し、その炭酸水を瓶詰めにして販売したのが「ウィルキンソン炭酸水」のルーツです。
■「炭酸煎餅」の由来も「炭酸水」
「炭酸煎餅」の看板を見つけた大東さんは、「炭酸」という名前の由来に興味を持ち、お店に立ち寄ります。
「黄金家」は、明治30年の創業以来、昔ながらの製法で焼き上げる炭酸煎餅のお店で、当時湧き出ていた炭酸水にちなんで名付けられたそうです。
■「想像の10倍ぐらい湧いてる」当時の炭酸水とは
驚くべきは、お店に残っていた古い写真。
【大東駿介さん】「想像の10倍ぐらい湧いてる」
炭酸水が湧き出ていた様子が記録されていました。
■宝塚歌劇団の意外なはじまりは「プール」だった
「宝塚」と言えば…長きにわたって多くのファンを魅了し続けている宝塚歌劇。
そのはじまりとされているのは、「日本初の屋内プール」でした。
そのプールが、後の宝塚歌劇団誕生の舞台となったのです。
■遊園地、動物園、植物園まである「宝塚新温泉」
宝塚の歴史に詳しい阪急文化財団の仙海義之さんが教えてくれたのは、阪急電鉄の創業者・小林一三による宝塚のまちづくり構想でした。
【阪急文化財団:仙海義之さん】「元々宝塚って明治時代は温泉地があって、和風の旅館街があった。200人ぐらい芸者さんおられて、どちらかというと男性のお客様を楽しんでいただくような場所だったみたい。でも一三さんは男性だけじゃなくて、女性の方、家族でみんなで楽しんでいただけるように宝塚新温泉を作ったんです」
明治43年、阪急宝塚線が開業。
その翌年、乗客誘致のために作られたのが、家族で楽しめる洋風の娯楽施設「宝塚新温泉」でした。
そこには遊園地、動物園、植物園まであり、家族が1日遊んで楽しめる場所だったのです。
■プールが歌劇場に変身した驚きの真相
屋内プールがなぜ劇場になったのでしょうか。
【阪急文化財団:仙海義之さん】「一三さんは女性の方にも、ご家族にもこの宝塚新温泉に来て欲しかった。女性の方が喜ぶような催しがあればいいんじゃないかということで、今で言うとブライダルフェア、結婚博覧会というのをやったんですよね」
結婚用品を展示した博覧会で、お母さんと娘さんがそれを見に来る。見て回って疲れるからパラダイスを休憩場にしたそうです。
そこでお客様に見てもらう余興として行われたのが「宝塚歌劇」の前身「宝塚少女歌劇」の始まりだったのです。
「宝塚少女歌劇」は、日本初の屋内プールで開催されました。
【阪急文化財団:仙海義之さん】「お客さんがおられるところがプールの中なんですよ。プールの水を抜いて、そこに席を並べたんですね」
当時は温水プールではなく水を入れていて、冬は使用できず人気がでなかったといいます。
【阪急文化財団:仙海義之さん】「プールが失敗したから劇場に作り変えた、ピンチをチャンスに変えたみたいな話もあるんですけども、実はそうじゃないんですよ。もともと夏はプールで、それ以外の季節は劇場で使えるように考えて作られてたんです」
【大東駿介さん】「ちょっとそれすごいですね。建設の時からそれがもう構想としてあったわけですね。すごいな。だとしたら本当にとんでもないエンタメ化け物ですね」
■「ファミリーランド」に込められた思い
小林一三が作った宝塚新温泉は、後に「宝塚ファミリーランド」と呼ばれるようになります。
残念ながら小林一三は昭和32年に亡くなっているため、この「ファミリーランド」という名前を知ることはありませんでした。
【阪急文化財団:仙海義之さん】「ただね、喜んでると思いますよ。いや、まさに思ってた通りやってことです」
【大東駿介さん】「時代を超えて小林先生がゼロから作った宝塚の街が、意思を継いでファミリーランドという名前になって愛され続けたわけですもんね。すごいことですね」
宝塚ファミリーランドは2003年に惜しまれつつ閉園しましたが、小林一三の「家族みんなで楽しめる場所」という思いは、宝塚という街に今も息づいています。
華やかな宝塚歌劇の裏には、こんな素敵な物語があったのです。
(関西テレビ「newsランナー」 2025年7月3日木曜日放送)