80年前の17日、鹿児島市は大きなアメリカ軍による大きな空襲を受け、2316人が命を落としました。
その鹿児島大空襲から80年を迎える17日、鹿児島市で慰霊の献花が行われました。
太平洋戦争末期の昭和20年、鹿児島市はアメリカ軍による合わせて8回の空襲を受け、記録に残っているだけで3329人が亡くなりました。
このうち、死者2316人と最大の被害をもたらしたのが6月17日夜の空襲です。
「黙とう」
この鹿児島大空襲から80年となる17日、鹿児島市のみなと大通公園には鹿児島市の下鶴市長や市民約50人が集まり、慰霊碑「人間之碑」に花を手向けました。
参列者
「空襲で亡くなった方があって、今自分がこの世にいられるという思い」
「亡くなった方たちの魂を少しでも鎮めたいという思い」
空襲を直接体験した人や親などからその体験を聞いた人は、空襲がもたらした被害や恐怖を語ります。
親や祖父母が鹿児島空襲を体験
「(空襲で多くの建物が焼け落ち)とにかく全部が見渡せる。祖母の家が永吉町にあるが『永吉町から海が見えた』と話を聞いた」
阿久根で空襲を体験
「防空壕に1日中お年寄りと一緒に避難していた。防空壕から出るのが怖かったという経験がある」
鹿児島大空襲から80年が経ち、戦争体験者の高齢化も進んでいます。
鹿児島市遺族会の吉見文一会長によりますと、今回の参列者の中に鹿児島空襲の体験者はいませんでした。
ウクライナや中東など今なお世界各地で戦争が起きる中、関係者は戦争の記憶を語り継ぎ、平和の大切さを訴え続けたいと話します。
徳之島で空襲を体験 鹿児島市遺族会・吉見文一会長
「生きて元気な時に自分ができることをして次に繋いでいきたい。平和の大切さ、命の尊さを命がある限り伝えていくことが私の使命と思っている」