JR福知山線脱線事故から20年が経とうとしている。大学生だった息子を亡くした一人の父親が、その日から抱き続ける問いがある。
「なぜ事故が起きたのか」。
そして、それは「安全とは何か」という深い問いへと続く。
息子との思い出を胸に。

■息子のために育てたイチゴは事故があった春に実るはずだった
70歳となった上田弘志さんは、今もなおその問いに向き合っている。
「目が覚めた時に子供が夢に出てきた」と語る上田さん。
春が近づくと、亡き息子の姿が夢に現れるという。息子の昌毅さんは、希望の大学に通い始めた矢先、事故に巻き込まれ命を落とした。
「長男を1歳で病気で亡くし、昌毅はその生まれ変わりのように感じていた。大事に育てた子だった」と上田さんは言う。
息子のために育てたイチゴは、事故の年の春に実るはずだったが、昌毅さんはそれを口にすることはなかった。

■「なぜきちんと安全対策に取り組んでくれなかったのか」
上田さんは「なぜきちんと安全対策に取り組んでくれなかったのか」と、裁判のたびに問い続けた。
被害者参加制度を利用し、検察官の後ろで傍聴を続けた彼は、「事故の責任はどこにあるのか」を探し続けた。
「この事故はこういうことで防がれなかった。昌毅の命を犠牲にして、今後そういうことがないように世の中が変わっていけるなら、それが一番いい」と上田さんは願う。

■息子の見た風景を記録に残したい 200時間超える映像
事故から10年が経った頃、上田さんは息子が大学まで通っていた道のりを記録し始めた。
「実際に何をどう見ていたのか、子供の目線で撮れたら」と語る。息子の生きた証や事故の悲惨さを語るものを、街の変わりゆく姿の中で残そうとしている。
工事で様変わりする事故現場も撮りため、200時間を超える映像に「安全を願う思い」を込めた。
これらの映像は、事故車両の保存施設が完成するのに合わせて編集が始まった。
JRの社員にこの映像を学んでもらい、「風化しないように伝えることが何かに気づく手助けになれば」と願っている。

■「兄のためにできることは、兄の分まで自分の人生を精いっぱい生きること」
事故直後から父の姿を見守ってきたもう一人の息子、篤史さんは、「もっと静かにみんなで悲しんで時間を過ごすものだと思っていた」と振り返る。
看護師として働きながらも、兄を失った悲しみと向き合えるまでには10年近くかかった。
篤史さんは2014年、追悼式で遺族代表として語りかけた。
【上田篤史さんの追悼の言葉】「(看護師として)不慮の事故で運ばれてくる患者さんも多い中、泣き崩れる家族を見ると、つい自分と重ねてしまいます。でも兄は病院で治療を受ける間もなく亡くなりました。私が兄のためにできることは、兄の分まで自分の人生を精いっぱい生きることです」
追悼の言葉に対する職場での反響を受けて、「父も発信することに意味を見いだしていたのではないか」と感じ、自身もまた何かを伝えることに意義を見出している。

■息子を愛する思いは変わらない
「同じ苦しみを誰も味わってほしくない」と、上田さんは20年間問い続けてきた。墓参りに訪れた彼は、「いつまでも動ける状態じゃないと思うから、何に対しても自分が亡くなった後のことを考えてやっていかなあかん」と語る。
息子を愛する思いは変わらない。上田さんの問いかけは、今も続いている。
(関西テレビ「newsランナー」2025年4月24日放送)
