太平洋戦争末期に日本軍が決行した特別攻撃「特攻」
特に桜が散る4月から5月にかけて、多くの若者が飛び立ち命を落とした。
愛媛県伊予市中山に住む元特攻隊員の上岡貞義さん98歳。初めて、カメラの前で当時の思いを語ってくれた。
上岡貞義さん:
「特攻隊員は憧れといえば憧れだし、でも死ぬのだから死にたいとは思わないけれどもこれもやむ得んだろうと。死について軽く考えていた。」
当時18歳だった上岡さんは特攻隊員として、鹿児島の出撃基地で命令を待ちながら終戦を迎えた。

「特攻」で約4000人の若い命が失われた
太平洋戦争末期。戦況が苦しくなる一方の日本軍は、まさに捨て身の作戦を決行した。
爆弾を積んだ航空機や魚雷などに乗り込み、敵艦に体当たりする「特攻」作戦。この作戦で約4000人の若者が戦場に散った。
元特攻隊員の上岡貞義さん:
「『これが世のため人のためになるのだ』という教育を受けた。だから自分が死ぬことによって日本の国が助かるんだと、良くなるんだという考え方に教育そのものも向いていく。」

「死ぬことを恐れない兵士」を作り上げる戦前教育
昭和2年(1927年)に愛媛県の旧中山町で生まれた上岡さんは、現在の松山北高校にあたる北予中学校に進学。
教師から「遅かれ早かれ戦場に行くのだから」と言われ、18歳のとき高知海軍航空隊に志願した。
そこで待っていたのは毎日の過酷な訓練だった。暴言や体罰は当たり前、「死ぬこと」を恐れない兵士を作り上げていくのだと感じたそう。

厳しい訓練で命を落とすものも
元特攻隊員 上岡貞義さん:
「たたかれてどやされるのが毎日の仕事。それくらいたたかれたということ。1人ではあったが(訓練中に)たたき殺された者もおる。『朝総員起こし、パパパパパパパパ』とラッパが鳴ったら、急いで起きてグラウンドへ出て支度をして、そこで点呼をとるわけ。(上官が)1人足らんから呼んで来い言うんで、上に上がってみたら冷とうなっとった(死んでいた)。」
「(たたかれるのは)これくらいの棒で、そこになんと書いてあるか。『海軍精神注入棒、味は大和の吊るし柿』その棒でたたかれたら、甘干し食うくらいええもんぞということだな。」

出撃直前で飛行中止…つながった命
上岡さんは高知での訓練の後、鹿児島県の鹿屋航空基地に移り、『神風特攻隊、菊水部隊「白菊」隊』に正式に配属されました。「特攻」の命令を待つ日々の始まり。
最初の出撃は機械トラブルで直前で取りやめに。そしてついに2度目の出撃命令が
昭和20年(1945年)6月25日に下りた。1機、また1機と仲間が乗った航空機が大空へ飛び立ち、ついに上岡さんの番。
元特攻隊員・上岡貞義さん:
「滑走路まで(航空機を)出しとった。そこで次に出ようと思いよったら、兵隊が走ってきて『本日はここまで。』」
2度目の出撃も直前で中止に。命がつながった。

身をつねって「痛い、生きておるぞ」
元特攻隊員・上岡貞義さん:
「(Q死ぬ覚悟はできていた?)もちろん。もう自分では死ぬものだと思うとるんです。 だから1カ月くらい自分の身をつねってみて、こういうようにしてみよった。『痛い、だから生きておるぞ』と思って。」
「(Q飛べなかったときの気持ちは?)五分五分じゃね。覚悟をしとるし、自分が死ぬことが国のためだと思っとるわけだから」

終戦「正直に言えばほっとした」
その日から2カ月後の8月15日、日本は敗れ終戦を迎えた。
元特攻隊員・上岡貞義さん:
「(Q終戦を聞いて)正直に言うならば、ほっとした。終戦というか敗戦。負けたっていうのはつらい思い出ではあった。」
戦後、上岡さんは地元に戻り、一番上の兄が戦死したことを知った。2番目の兄も満州で死亡。戦争で多くのものを失った。

上岡さんが毎日訪れる”特別な場所”
98歳になった上岡さん。戦後、3人の子どもと5人の孫13人のひ孫に恵まれた。1人でまちを散歩するのが日課で、皮肉にも「特攻」に向けた厳しい訓練のおかげで「今も健康でいられる」と言う。
この日、上岡さんは私たちをある場所に案内してくれた。
元特攻隊員・上岡貞義さん:
「ここに(招集兵が)並んで見送る。町長や関係者の挨拶があって、ここで別れて車に乗って兵隊は出たんです。」
当時、中山の若者はここから戦場へ送り出された。上岡さんは当時を思い、ここで手を合わせる。
上岡さんは鹿屋や高知など全国に残る戦争の石碑を巡り、亡くなった戦友に想いを寄せてきた。

あの日から80年 元特攻隊員が思うことは
多くの犠牲を生み出した太平洋戦争。あの日から80年が過ぎ、元特攻隊員の上岡さんは最後にこう語る。
元特攻隊員・上岡貞義さん:
「生存競争というのはなくならないと思うが、『戦争』というのはええことは一つもないわいな。何一つ残るものはない。」
