沖縄戦では、アメリカ軍が上陸した渡嘉敷島で起きた強制集団死、いわゆる”集団自決”。

戦後80年を迎える2025年3月28日の慰霊祭には「今年が最後になるかもしれない」と語る生存者の姿があった。

日本軍が配備された島

集団自決で命を落とした人々の名前が刻まれている「白玉之塔」。

この記事の画像(13枚)

2025年3月下旬に行われた節目の慰霊祭に参列した体験者は少ない。

吉川嘉勝さん:
光陰矢の如しというか、あっという間でした

吉川嘉勝さんは集団自決を逃れ生き延びた。故郷で起きた悲劇を語り継いできた。

吉川嘉勝さん:
これからあとどれだけ、あの戦争のむごさを伝えきれるかどうか気になるところです

1945年3月27日、アメリカ軍は沖縄本島に先立ち続き渡嘉敷島に上陸した。

このとき住民たちは日本軍の命令で島北部の北山(にしやま)へと集められた。

住民たちは手りゅう弾や刃物を使って、あるいは縄で首を絞めるなどして親兄弟に手をかけた。「生きて虜囚の辱めを受けず」、アメリカ軍に捕まればひどい仕打ちをされると教え込まれていた。

吉川さんは当時6歳、両親やきょうだいとともに北山へ向かった。

吉川嘉勝さん:
持てるだけのいろいろな物を持っていました。私は小学校1年に上がる年だったので買ってもらったランドセルを担いで山に上がりました

北山には数百人の住民がひしめいていたという。吉川さんは惨劇を目の当たりにした。

吉川嘉勝さん:
当時の村長がみんなを集めて何かをしていました。そのうちみんなで「天皇陛下万歳、万歳」と万歳三唱した。そのときに手りゅう弾の爆発音が非常に印象に残っています。「バンバン」と鳴っていました

耳をつんざく爆発音が響き、周囲はパニックに陥った。

吉川さんの家族は2つの手榴弾を持っていたが、いずれも不発。父の次良さんが「火をつけて投げ込もう」と言った瞬間、母・ウシさんが大声で叫んだ。

吉川嘉勝さん:
母が手りゅう弾は捨てろと言いました。「いとこの兄さんは逃げる準備をしているじゃないか。そうだ、人間は死ぬのはいつでもできる。みんな立って、兄さんを追って逃げなさい」と。方言で母が話した、その凄まじさを私は非常によく覚えています。最後は「命どぅ宝さ」と母が言っていました。母がそう言うと、みんなで逃げだしました

母の叫びに背中を押され、吉川さんや家族、ちかくにいた住民たちは一斉にその場を離れた。

集団自決から生き延びることができたが、逃げる途中で飛んできた爆弾の破片が父の頭を直撃した。吉川さんの目の前で父は倒れた。

吉川嘉勝さん:
頭が破裂して倒れました。「ウーン」とうなって、それで終わりました

父はその場で命を落とした。

吉川さんは戦後長く、自らの体験を語ることはなかった。この出来事を語り継ぐ決意をしたのは18年前。

吉川嘉勝さん:
大きなきっかけは、9・29県民大会。2007年のことでした

2007年、高校の歴史教科書から「集団自決に日本軍が関与した」という記述が削除された。

文部科学省の検定意見撤回を求める沖縄県民の怒りは大きなうねりとなり、11万人以上が集まる県民大会へと発展した。

吉川さんは壇上にあがり「日本軍の関与がなければ集団自決は絶対に起こっていません。歴史を歪曲する集団自決の改ざんを許してはなりません」と強い口調で訴えた。

この日を機に自身の体験を語り続けるようになった。平和学習の資料作成にも力を注いできた。

集団自決から80年。ふと不安が頭をよぎる。「語り部としての活動は今年が最後になるのではないか」と。

吉川嘉勝さん:
おそらく戦争のことを時系列で記憶している最も若い世代だと思います。当時6歳くらいでしたから。2、3年前から「今年まで、今年まで」と語り部を続けてきましたが、もう老化もつるべ落としですからね、来年のことは分かりませんが努力はしていきたいと思います

戦後80年。戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に伝え続けてきた体験者の記憶を、これからも引き継いでいくことが求められている。

(沖縄テレビ)

沖縄テレビ
沖縄テレビ

沖縄の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。