「庭の木で首つり自殺をした」

訪朝にむけて会見する小泉純一郎首相(当時)
訪朝にむけて会見する小泉純一郎首相(当時)
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平成13年(2002年)9月、 小泉首相が電撃訪朝した時、 僕は政治デスクになって4年目に入っていた。 

その日は、北朝鮮政府が作った、 日本人拉致被害者の安否に関する報告書について、 訪朝に同行した安倍官房副長官の会見が昼過ぎに予定されていた。  会見の直前に、 首相官邸クラブからFAXで送られてきた3枚の紙を走り読みして、 息を飲んだ。  それは北朝鮮が作った報告書の和訳で、 拉致被害者8人の死亡について、詳細が書かれていた。  

いまだに帰国が実現していない横田めぐみさん
いまだに帰国が実現していない横田めぐみさん

そして、横田めぐみさんについて、 「精神病院に入院中、散歩をしている時に監視の目を逃れて、 庭の木で首つり自殺した」と書かれていた。  FAXの前に立ったまま呆然とその紙を読んでいると、 編集長のKさんが走って来て、「どうした!」と叫ぶ。  「北朝鮮がめぐみさんは自殺したって言ってる。これ速報かな?」と叫び返すと、 彼は眼をむいて黙った。あまりにもむごい事実を受け入れることは誰にも難しい。

  普段は強引なKさんは泣きそうな声で、 「それは、まずお前が判断するんだよ」と言う。それはそうだ。 結局僕の判断で、8人死亡という事実だけ速報し、詳細は控えることにした。 人の死について、加害者側の言い分だけで断定的に伝えることはできないからだ。事実ではないかもしれないのだ。 

帰国会見をする安倍官房長官(当時)2002年9月18日
帰国会見をする安倍官房長官(当時)2002年9月18日

しかしその数分後に始まった会見で、 安倍さんが北朝鮮側の発表と断りながらも、 自殺の詳細について発表したのには驚いた。  これについて安倍さんは後に、 北朝鮮による報告書を横田さん夫妻に見せたところ、 夫妻は「拉致問題解決のために公表してください」と仰った、と明らかにしている。  

しかし北朝鮮は2年後の2004年11月に行った日朝実務者協議で、 8人に関する死亡診断書はすべてねつ造だったことを認めている。 めぐみさんは生きているかもしれない。 いやきっと生きていると我々は信じている。  

世界に衝撃を与えた小泉訪朝

史上初の日朝首脳会談 小泉首相(当時)と金総書記握手の瞬間
史上初の日朝首脳会談 小泉首相(当時)と金総書記握手の瞬間

小泉訪朝は世界に衝撃を与えた。

日本の首相が自ら北朝鮮に乗り込んで、拉致被害者5人とその家族を取り戻したのだ。 さらに驚いたのは、 日本が北朝鮮との約束を平然と破ったことだった。

 5人の被害者が帰国した時、日朝両政府は、 彼らをいったん北朝鮮に返して、改めて日本に帰国させる、という約束をしていた。 しかしその約束を日本政府は破って、5人を北に返さなかった。  これには国内でも賛否両論があった。 5人を返さなかったのは、 安倍さんの小泉さんへの進言だったとされている。 だが北との約束を破ることについて、外務省は否定的で、 福田官房長官も会見で外務省寄りの発言をしていた。  

ある新聞が、 「日本が北に5人を返さなければ、北はミサイルを日本に撃つかもしれない」 と書いていて、 ずいぶんひどいな、と思った。 新聞がこう書けば世論は弱気になる。 実際、僕も、北が撃ってきたら怖いな、と正直思った。 

生存が確認された拉致被害者5人が帰国 2002年10月
生存が確認された拉致被害者5人が帰国 2002年10月

しかし小泉さんは、5人を返さず、 そのために、家族と離れ離れになってしまった5人の被害者も、 黙って耐えた。 そして北は1年半後の2004年5月、子供たちを帰国させた。 僕は「毅然とした日本外交」というものを初めて見た気がした。  と言うより、 西側諸国が北朝鮮にだまされずに、まともな外交をした例は、 過去にはなかったし、その後もない、と思う。 

たとえば94年の米朝枠組み合意による、北朝鮮への軽水炉提供は、 失敗だっただけでなく、北の核開発を助けてしまった。 あるいは最近のトランプ・金正恩会談でも北は一向に核廃棄をしない。 米国は常に北朝鮮にだまされているのだ。  それに比べて、この時の小泉外交は見事だった。 最初は外務省の田中均・アジア大洋州局長が、 北朝鮮のミスターXと極秘に交渉を進めた。  田中氏は拉致被害者を取り戻すため、 現実的な交渉をしたので、 後に「北寄り」と批判される。   

日本に向けて出発する拉致被害者の子供たち
日本に向けて出発する拉致被害者の子供たち

日本が1兆円払うとか、5人をいったん北に戻すとか、 すべて田中氏がミスターXに約束したことだと言われている。 しかし訪朝した時に、その流れを変えたのが、 官房副長官だった安倍さんだった。  

一行はお弁当を持って平壌に行った。 北が出す物は何が入っているかわからず、 怖くて食べられないからだ。 そして控室で、盗聴されているのを承知で、 「拉致について金正日が謝罪しないなら席を立つ」 とわざと言って、金正日に謝罪させた、 というのは有名な話だ。 

田中均外務審議官
田中均外務審議官

 1兆円の経済協力にしても、 金正日は5人を返せばもらえると思っていた。 しかし日本は、8人死亡の報告がでたらめであるとして、 1円も払わなかった。  小泉さんのすごいところは、 前半の田中均さんの「北寄り」の交渉について、 細かく報告を受けて、それを承認していた。  だから田中均批判というのは的外れだと思う。 彼は上司の許可を得ていたのだから。  

北朝鮮をだました見事な外交

日朝首脳会談にのぞむ小泉首相(当時)と安倍官房長官(当時)
日朝首脳会談にのぞむ小泉首相(当時)と安倍官房長官(当時)

しかし小泉さんは、訪朝後は強硬派の安倍さんの意見を聞いて、 北に言わせれば、約束を破った。だましたのだ。 相手の弱みを見透かした、この外交は見事だった。  

当時米国ブッシュ政権は北朝鮮をテロ支援国に指定し、 経済制裁など対決色を強めていた。 その状況で金正日は経済援助をちらつかせた日本の誘いに乗ってしまったのだ。  僕はそれまで軍事力をバックに持たない外交には力はない、と信じていたので、 経済力だけでも外交をできるのか、と驚いた。  

小泉さんは安倍晋三と田中均という2人をうまく操って5人の拉致被害者を取り返した。これは小泉さんにしかできない芸当だった。   また安倍さんも、北への強硬姿勢で国民の高い支持を得て、 小泉さんの後継者になることが事実上確定した。 安倍さんはそのまま政権を取ったが、いったん挫折、 しかし再度政権を取り今日に至る。 

 しかし2002年の訪朝から17年がたったが、その後、拉致問題は進展しなかった。  昨年のトランプ・金正恩会談で、 事態がようやく動き出した。 トランプは核開発だけでなく、拉致問題の解決も金正恩に求めた。     

死亡確認書を見せながら会見をする横田夫妻
死亡確認書を見せながら会見をする横田夫妻

拉致問題は動くのだろうか。 僕は動くと思う。 

米朝は核廃棄で今さら決裂できない。 いずれ何らかのディールをするのではないか。 そうなると制裁の終了や経済支援に向けた次のハードルは人権問題だ。  日朝の拉致問題が解決すれば、 国際社会は人権問題で北朝鮮を評価するだろう。 だから金正恩は拉致問題をカードとして使ってくる可能性があると思う。

家族を奪われている方々にとって、 この問題を外交カードに使われるというのは耐え難い苦しみだと思う。 ただ日本が軍事力を使って拉致被害者を救出できない以上、 外交に頼るしかない。 そして、拉致問題の外交的解決の可能性は決して小さくはない、と思う。           

【執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫】
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平井文夫
平井文夫

言わねばならぬことを言う。神は細部に宿る。
フジテレビ報道局上席解説委員。1959年長崎市生まれ。82年フジテレビ入社。ワシントン特派員、編集長、政治部長、専任局長、「新報道2001」キャスター等を経て現職。