「通訳」という職業は日本では広く認知されているが、世界的に見ると比較的珍しい仕事である。

世界人口の多くが英語やフランス語、スペイン語などの主要言語を母語とし、また複数の言語を使いこなすことも一般的である。

大学では心理学を専攻した酒井氏
大学では心理学を専攻した酒井氏
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言語を駆使して、来日した海外選手の実力を最大限に引き出し、ピッチ上だけではなく、プライベートも支えるパートナーが、「スポーツ通訳」だ。Jリーグ2チームで3年間通訳として活躍した酒井龍氏。

 通訳という仕事との出会い

「プロサッカー選手になりたい」という夢を抱き、大学4年間をサッカーに捧げた酒井氏は、「入学当初は6軍ベンチ外。そこから4年間で2軍まで上り詰めた。トップチームには昇格できなかったけど、プロを諦めきれずサッカー選手になる希望を繋ごう」と大学院に進学。

しかし、その夢は叶わなかった。

大学院1年生の2月、誘われて参加したサッカーの試合で、元サッカー通訳の方と出会った。この出会いが酒井氏の人生を大きく変えることになる。

酒井氏:
通訳は、チームに所属して海外選手のサポートをする、言語と言語を繋げる仕事という話を聞いた時、ビビッときて「これだ、通訳になろう。」と。その時点では、英語力は全くなかったですし、“I play soccer.”くらいのレベルでした。
ただ、サッカーと同じくらいの熱量で取り組めるものは、英語しかない、やるしかないと自分を奮い立たせました。

圧倒的な行動力と本気のメール

留学を決意し、向かった大学の留学センターで「大学院生で留学する人はほぼいないです」と、断られたという酒井氏。

ただ、翌日も翌々日も、留学センターで留学したい思いを伝えると、5日目に、留学先候補のパンフレットをもらったという。

ここからさらに、酒井氏の行動力が発揮される。

英語圏の大学、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアをはじめ、アジア、欧州の大学50校に「留学がしたい」と、メールしたという。

酒井氏:
まったく返信はなく、諦めかけていた時、一校だけ返信が来たんです。それがオーストラリアの大学でした。その大学の担当教授に、『あなたのもとで留学をしたいです』とメッセージを送ると、“fantastic”と。これで留学が決まったんです。

サッカーについて研究した留学先の大学
サッカーについて研究した留学先の大学

スポーツ通訳への道

酒井氏によると、サッカー通訳は即戦力の人材が求められるため、紹介や推薦によるリファラル採用がメインで、一般採用はあまりないという。

サッカー界の中で、通訳を見つける傾向があり、紹介なく通訳として契約できることはかなりハードルが高いそうだ。

酒井氏もそのことを留学前にリサーチしており、留学中から行動を起こしていた。

酒井氏:
あるチームが通訳を探そうとした時に第一候補になること。これこそが通訳になるベストな方法だと思ったので、留学が半年経った頃から、プロサッカー選手の友人に、所属チームの通訳を紹介してもらったり、他チームの通訳の方々に連絡を入れました。
コーチや、チームの強化部を含めると、約50人と連絡を取り、留学から帰国後に直接お会いするなど認知を広めました。

記者会見で通訳する酒井氏
記者会見で通訳する酒井氏

すると、2021年2月、酒井氏の行動力と熱意が実を結び、Jリーグ・サガン鳥栖から通訳としてのオファーが届いた。

「契約書にサインしたときは、人生の中でも最高の瞬間の一つだった」と振り返る。

選手のすべてをサポートする通訳の仕事

通訳の仕事は、多岐にわたる。
メインの仕事は、試合中、監督の横で選手に英語で指示を送ること。また、練習やヒーローインタビュー、ミーティングでの通訳だ。

ただ、ピッチ外のサポート、つまり選手の私生活もサポートするのだ。
買い物や美容院、役所の手続きにも同行する。

例えば、夜中に選手の子供が高熱を出したとき、酒井氏は車で病院まで送ったという。

試合中に監督の指示を選手に英語で伝える酒井氏
試合中に監督の指示を選手に英語で伝える酒井氏

酒井氏:
日本語が話せない選手は、私生活でも、通訳がいないと成り立たない部分があります。
なぜ私生活のサポートが大事かというと、選手の調子の良し悪しは、ピッチ上で起こっている問題だけでなく、プライベートが要因のときもあるんです。だからこそ、ピッチ上だけではなく、プライベート面もサポートしていくことが大切です。

同じ時を過ごすからこそ言葉に思いが乗る

通訳と担当選手の関係を「戦友」と酒井氏は表す。
前向きな時間よりも、苦しい時間を共にすることが多いからだ。

通訳として最高の瞬間の一つが、ヒーローインタビューだという。

選手入団会見で通訳する酒井氏
選手入団会見で通訳する酒井氏

酒井氏:
選手と二人三脚、ご家族とも関わります。選手がスタメンに選ばれて、ゴールを決めて、試合に勝つ。そしてヒーローインタビューで彼の言葉を通訳する。その通訳した言葉には、ただの日本語ではない、もの凄い思いが詰まっている。悩んでいた時間や、リハビリをしていた時間も知っているんです。だから、2人でお立ち台に立った時の高揚感は、ただ1試合に勝っただけではない、特別で、言葉にできないものなんです。

見つけた次の夢にむけて挑戦する毎日

酒井氏の最終目標は「サッカーの世界最高峰、欧州のプレミアリーグやブンデスリーガで働くこと」。
多言語を話す人が多い欧州では、「通訳」だけで雇われることはほぼない。言語だけでなく、別の能力やスキルが求められるのだ。

そこで現在は、バスケットボール、東アジアスーパーリーグ(EASL)の日本マーケティングマネージャーとして、マーケティングや広報を担当している。
競技は違うが、アジアという大きなマーケットで、新たな分野に挑戦している。

打ち合わせなどすべて英語で行われている
打ち合わせなどすべて英語で行われている

 英語力はほとんどないところから、1年間の留学を経てスポーツ通訳になった酒井氏は、最後にこう話す。

「計算高く歩いていくことより、今を全力で生きるからこそ出会えるものを信じて歩いていく方が、人生は面白く、豊かで、いまは想像し得ないとんでもない世界に連れていってくれるのかもしれません」 

自らの行動力と熱量で通訳への道を切り拓き、Jリーグで活躍した酒井氏。

選手が契約満了になると、通訳も同じく契約満了になる現実もあるという。

ヒーローに選ばれた選手の隣にいる通訳と、その言葉にもぜひ注目してほしい。 

大川立樹
大川立樹

フジテレビアナウンサー。1995年、愛知県出身。愛知県立刈谷高校、筑波大学体育専門学群卒後、2018年フジテレビ入社。現在、情報番組『めざましどようび 』のスポーツコーナーや、スポーツ実況(野球、ボクシング、スピードスケート)を担当。
野球を大学まで17年間、そのほか、水泳、駅伝、トライアスロンなどを経験。