「感じて」「考える」力をつけよ

慶應義塾大学SFC 環境情報学部教授/ヤフー株式会社チーフストラテジーオフィサー安宅和人氏
慶應義塾大学SFC 環境情報学部教授/ヤフー株式会社チーフストラテジーオフィサー安宅和人氏
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「日本の若者たちは持つべき武器を持たずに戦場に出ていっている」

データサイエンティスト協会のスキル定義委員長でもある慶應義塾大学SFC 環境情報学部教授/ヤフー株式会社チーフストラテジーオフィサー(CSO)の安宅和人氏は、かねてからいまの日本の教育の在り方に警鐘を鳴らしてきた

ポスト平成の時代を生きていく日本の子どもたちをどう育てるべきなのか。安宅和人氏に解説委員 鈴木款がインタビューした。

ーー安宅さんは、すべての産業がAI×データ化する中で、日本が「一人負け」の状態であるとおっしゃってきました。そして日本の再生のための人材育成の在り方も提唱されています。今回は特に初等・中等教育の現状と課題、そしてどう変えるべきなのかを伺います。

初等・中等教育の最大の問題は、育成の仕方が「マシンライク」だということだと思います。「人間性を抑え込んだ機械のような能力を育てようとしている懸念」があると。書き取りを何十回もやるとか、意味もわからず算数ドリルを繰り返しやるとか、が典型的です。こうしたことは人間より機械のほうが圧倒的に得意な上、今後これまで以上マシンが置き換えていくことが明白な活動です。これからはむしろ、人にしか出来ないこと、つまり、意味を理解する、自分なりに感じる、判断するほうが圧倒的に重要になることはほぼ自明です。

その人なりに判断するということがないとその人が生み出す付加価値はゼロになる方向に技術革新は向かっている。このことを考えると、生の体験を通じ、その人なりに感じて考える力をつけないといけないのですが、その最も大切なことの多くは学校教育ではなく、家庭なり自発的な学びに依存しているのはどうなのだろうかと。育てるべき人材の像も、教えることも、時間的なポートフォリオも根本的に見直すべきです。

「その人らしい何かを生み出す」教育の欠落

 
 

ーーいまの教育は、教師から生徒への一方向的で、子どもに考えさせる時間を与えませんね。

はい、そういう傾向が強いですね。教壇からの一方的な教授方式で、自分で考える力を育てるというのは少々無茶です。「習い」の部分が強すぎ、これから一番大切になる「その人なりに感じる」「その人らしく何かを生み出す」部分が欠落しているからです。

また習うべき部分についても、いまのように社会課題と技術革新が激変する時代だと、どんな先生でも常にupdated(時代に追いついている)な状態なんてありえないわけですよ。ですから先生は学ぶことをサポートするファシリテイターにならなければいけない。全部、熟達した先生が一方向的に教えるという発想自体に無理があります。先生方がかわいそうです。僕だって何でも自力で教えることを期待されたらつらいです。

また、時代の変化にカリキュラムも追いつかないので、指導要領は2~3年に一度は見直すべきです。それと共に先生方のスキル刷新の仕組みが必要です。大人の再学習システムも不可欠になります。この事はあまり語られませんが、深層学習が情報科学の世界ではじめに目に見える劇的なインパクトを与えたのは2013年、わずか5年あまり前です。

ーー子どもたちそれぞれに学びを最適化するには、先生はどうやればいいですか?

ざっくりとしたテーマを与えて、子どもたちそれぞれがやっていることをアシストしてあげる方式にすれば、完全に1 to 1でやれるはずです。皆さんが日々スマホで見ている広告などのデジタルマーケティングが人どころかその置かれている局面、場面ごとに最適化しているような時代に、十把一絡げな教育というのは本当に残念な状況で、初等中等というより教育全体の問題です。ただこれをやろうとすると、先生方の方でかなり丁寧な対応が必要になります。簡単に十把一絡げに全く同じ問題を採点するみたいなことは消えていくからです。

コミュニケーション能力の基本的な育成を大切に

ーーそれでは科目ごとの問題に移ります。まず、いまの国語の学びをどう思いますか?

これまでの国語教育は基本的なコミュニケーション能力を育てることを重視していません。多くが、情報が意図的に、表現上の理由で削られた「あえて分析的ではない」文章、すなわち、小説や随筆などの文章を読んで、「この人は何を言いたいのか」推測するという「慮り(おもんぱかり)教育」です。慮る力、今風に言えば空気を読む力も日本文化的でいいと言えばいいのですが、これはむしろ後でやるべきステップです。表現においても、言いたいことをまずはっきりさせようとか、論理的な構築力を鍛えようということをあえて後回しにした、いわゆる感想文が中心です。

頭の柔軟な若いときは、いきなりあえて不完全に表現された芸術的文章を読むという高等技芸に行く前に、もう少し分析的に書かれた普通の文章を読んで何が問題なのか見極めるとか、その上で、自分が言いたいことを明確に形にし、人にわかりやすく伝えるという力をまずはつけなければいけないはずです。人とやり取りするという社会でのコミュニケーション能力の基本的な育成をスキップして、いきなり曖昧なコミュニケーションしか行われない空間を許容し、それを理解するというより高等なスキル育成を主としてやっているという認識です。

© Kaz Ataka 2018
© Kaz Ataka 2018

ー自分の言いたいことを人にわかりやすく伝えるという教育についていうと、アメリカでは「Show and Tell(※)」を初等教育の段階で徹底的にやりますね。

まさにそれ系の教育をある程度やったほうがいいと思います。自分も本の虫だったので物語を子供の頃から読むことは僕もとても大切だとは思いますが、国語という名のもとに、ソフトで角の立たない表現教育をするのは少なくとも中等教育以上に回したほうがいいのではないでしょうか。

問題をさらに言うと、楽しくやっていないことですね。これは国語ではなくて数学の話ですが、中学生2年生のデータを見ると、能力を示すスコアは世界のトップレベルであるにも関わらず、数学を得意だと思っている人の割合が1割しかいない。これは極端に低い水準で世界最低レベルと言っても良い。

(※)子どもたちが自分の好きなものを家庭から持ってきて、なぜ持ってきたのかクラスの前で話すスピーチの技術教育。

ーー勉強ができるようになっても、楽しんでないと。

ですね。世界的にも国ごとの平均スコアと得意だという人の割合はゆるやかな負の相関があるとは言え、何かおかしくないですか?普通なにかできるようになればむしろ好きになるものです。実際、シンガポールは日本よりスコアが高く、世界トップ、しかも得意だという子たちが4割以上もいる。しかし我が国ではやればやるほど嫌いになる、という教育をやっているんです。教育レベルという意味では明らかに成功していますが、心の意味では明らかに失敗しています。嫌いになるための教育というのは何なんですかね。悲しすぎませんか?子どもたちだけでなく熱心にやっている先生方たちにとっても不幸です。

今たまたま数学の話を見ていますが、数学が例外というのはちょっと考えにくい。このやり方の延長では、この子たちから生命力のあるアイデアはそう簡単に生まれてこないと思います。たまたま非常に得意だったごく一部の人が頑張ればいいという社会になっているということだと思います。

夢やデザインでサービスを作る教育

 
 

ーー算数はどうみていますか?

いま日本の初等・中等教育ではほぼ全くAI-readyな人材が生み出せていません。

それどころかコンピュータをぶん回したり、センサーなどのデータを使ってデータとかAI関連のことをやっていると、今の学校ではさぼっているとしかみなされません。中国は今年から中等教育段階で深層学習はおろかGAN(敵対的生成ネットワーク)までも組み入れ始める予定と言われています。我々も技術家庭科を組み替えて、データやAIの実技を導入するべきです。夢や技術やデザインの視点で、ものやサービスを作る教育を導入するべきです。

もっと根源的なことを言うと、高2から数理素養を全くと言っていいほど学ばない人を生み出す、いわゆる理文分離が非常にまずい。大学の専門とは全く関係なく世の中には理系文系以前に学ぶべきものがあるのです。

 ーー理系文系の縦割りを取っ払うために、いまリベラルアーツを導入している学校も増えてきましたね。

この国では基礎教養、いわゆるリベラルアーツが根本から誤解されています。リベラルアーツはもともと自由民と非自由民、すなわち奴隷、が別れていた古代ギリシアで自由民に求められた素養として生まれました。これは中世のヨーロッパで人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本、自由七科、として発展します。文法学、修辞学、論理学の3学、そして算術、幾何(図形の学問)、天文学、音楽の4科です。3学は先程のコミュニケーションそのものです。天文学は近代科学以前のこの時代であればサイエンスそのものと言っても過言ではありません。音楽は応用数学であり、アートでもあります。以上から分かる通り、リベラルアーツとは本質的にコミュニケーションとSTEAM(※)的なもの(Artes Mechanicaeと呼ばれたEngineering /工学を除く)であり、日本でよく代表的な基礎教養とされる古典、歴史、文学などはそもそも含まれていない、これらを前提とした更に上の教養なのです。

(※)Science, Technology, Engineering, Art, and Mathematics

© Kaz Ataka 2018
© Kaz Ataka 2018

ーーなるほど。日本の学校では基礎教養というと、文学や歴史、芸術を思い浮かべますよね。

はい。この本物の基礎教養を日本も大学の専門と関係なくやらないといけない。よく言われる文系学部・文系学科廃止論は間違いで、大学に文学、歴史、アート、つまりいま教養とみなされていることの多く、は間違いなく必要でしょう。そういうことではなく、小売やアートのような文系の典型と言われるところを含め、あらゆる分野をデータやAIが刷新しているこのタイミングで、高校での理文分離、大学入学準備にこれらの高校での履修が一切不要とされる状態は見直すべきです。

数学に関しては数2Bまでは専門を問わず、大学に行くような人たちには必修化すべきと考えます。なぜならいま世の中を揺り動かしている情報科学は数学の言葉、具体的には線形代数、微分積分、そして統計数理で書かれており、この基礎概念の多くは数2Bでようやく扱うからです。大量の変数を扱う技の基本として行列も復活させるべきです。

ーー数学が苦手な学生には厳しいですね。

ただ誤解してほしくないのは、多くの人には現在のいわゆる難関校入試を解くような能力が必要なわけではないということです。しかし、これらの数学の言葉と概念をある程度学んでおくこと、困った時に調べる程度の力は大切です。これらがないと高等教育に入り、大学の教養・学部過程でデータサイエンスやエンジニアリングの基礎を教えるハードルがあまりにも高いからです。化学の言葉や考えを理解せずに現代の身の回りのもの、例えばプラスチックや金属、塩や砂糖の性質を理解できるのか、と言っているのとほぼ同じです。
(後編に続く)

【執筆:フジテレビ 解説委員 鈴木款】
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鈴木款
鈴木款

政治経済を中心に教育問題などを担当。「現場第一」を信条に、取材に赴き、地上波で伝えきれない解説報道を目指します。著書「日本のパラリンピックを創った男 中村裕」「小泉進次郎 日本の未来をつくる言葉」、「日経電子版の読みかた」、編著「2020教育改革のキモ」。趣味はマラソン、ウインドサーフィン。2017年サハラ砂漠マラソン(全長250キロ)走破。2020年早稲田大学院スポーツ科学研究科卒業。
フジテレビ報道局解説委員。1961年北海道生まれ、早稲田大学卒業後、農林中央金庫に入庫しニューヨーク支店などを経て1992年フジテレビ入社。営業局、政治部、ニューヨーク支局長、経済部長を経て現職。iU情報経営イノベーション専門職大学客員教授。映画倫理機構(映倫)年少者映画審議会委員。はこだて観光大使。映画配給会社アドバイザー。